コメントへのレス

http://d.hatena.ne.jp/hajic/20050724/p2#c

>エレさん
並列世界に意味はないと言っているのではなく、私が言っているのは、シンフォニック=レインにおいて提示された(9つの?)平行世界を、「並列に」ではなく「階層的に」見ていくべきだということです。説明すると、それぞれの世界(つまり各ヒロインごとのルート)には、それぞれ一つずつ主題(と、疑問)があるわけです。例えばファルなら、「人間の関係とは、結局利用しあう関係に過ぎないのか?」。彼女の主張するこの理屈は極めて手強く、たぶん論破不能です。しかし、それはやっぱり何かおかしい。じゃあ何がおかしいのか、と言う疑問を自分の内に持って、また別の世界(ルート)を読んでみる。するとリセルートでは、「相手に捧げ尽くすことの美しさ」が語られ、またそれに対する疑問が生まれる(「本当に、それでいいの?」)。さて、「利用しあうこと」「捧げ尽くすこと」、そのどちらもが同時に成り立ち、同時に問題であるならば? …ここに衝突が起こり、その結果生じる答えは、衝突した二つのテーマを止揚したものであるべきでしょう。以上のように、私はSRの持つ平行世界の構造を、並列にではなく階層的に、つまり対立する主題同士の解決過程として捉えています。…けれどやっぱり、最終的にはどうしようもない問題が残る。その時機械には、「信じる」という行為はできないわけです。


genesisさん
エレさんへの回答でも書いたのですが、私は矛盾する主題が残っている限り、その物語は完全には解決していないと考えます(なぜなら完全は一つであり、完全な結末もまた、ただ一つだからです)。言い換えるなら、私にとって、フォーニエンドと真トルタは、それらが並立しているが故に、絶対に並立不可能なのです。二つが同時に成り立つ以上、その両方は同時に否定されなければならない。だから、私は真トルタを真の結末だと主張しているように一般に理解されているようですが、正確には、「全ての結末(フォーニエンド、及び真トルタさえも)を踏まえた(≒否定)した上でのal・fine」こそを真の結末だと私は主張しているのです。しかしそのような結末は文字として――クリスの物語としては語られていない。ではその物語は一体どこにあって、そして一体誰の物語なのか? 私はそれを、「読者自身についての、読者自身の物語である」と考えているのです。読者自身によって、読者自身に語られる物語として。


>黒胡椒さん
超越的視点についての投稿、良く理解できました。ありがとうございます。極めて概念的な事象なのに、とてもスマートな記述ですね。私はどうもそれが苦手で、いつも誤解を招くようです。付け加えて言うならば、私は「私たちは本当に超越的な視点を持っているのか?」という疑問を提示したい。少なくともSRという世界において、私たちは一見その世界の外側の傍観者、つまり読者として超越的な存在であるつもりでしたが、実はクリスやトルタの視点に囚われたままでしかなかった。そして今となっても、私たちは彼ら以上の視点を持てているのかとても怪しい。私たちは超越者ではなく、ただ、たくさんの結末の可能性を知っているだけの、「二人ともを極めてよく知っている、作中の誰か」でしかないのではないかと。私たちは「彼らによって語られた」以上のことを全く知らず、ただ想像しているだけです。にもかかわらず…私たちは何にも知らないのに、しばしば全て知っているような気になってしまうわけです。超越的視点というものは、人間が持ちうるものではない。物語という人間が生み出した世界の中においてさえも、私たちはそれを読むたびに新しい意味を取り出すことができる。私たちは超越した気分でいるだけで、本当は物語の中に生きているのではないでしょうか。