あんよさんのお返事へのお返事へのお返事へのお返事

あんよさま。いつもご丁寧にご返事ありがとうございます。ただ、あいにく根本的なところで互いの論点がずれているらしきことに気付きました。つまり、似たようなことを別の側面から語っている可能性はゼロとは言えません。なので、以下の文章は「お返事」ではなく僕の立場表明であるとご理解下さい。


要約:
物語世界を世界として観測する限り、主体は読書をする読み手以外に存在しない。故に(その文脈上において)本作に登場する全てのキャラクターはキャストである。ただし比較的主人公(主体)に近いキャラクターは存在し、それはハルヒではなくキョンであった。けれど彼さえも結局のところキャストに過ぎないのだから、「彼らにとっての彼らの存在意義」を僕らが考えることは意味がない(あるいは「彼ら」という主体ではない僕らには不可能である)。彼らは読み手である僕らとの関係の中にのみ意味を持ち、だからこそ彼らの意味とは「僕らにとっての彼らの意味」として酷く自覚的に拾い上げられなければならないし、実際のところ僕らには、それ以外になにもできない。

ハルヒキョンも自分の人生を生きているという意味でこの物語の主人公である、とするのがぼくのしごく単純な前提です。
http://www.puni.net/~anyo/diary/200608.html#20060826

僕は「ハルヒという物語世界の中心にいたのは実はハルヒではなくむしろキョンに他ならない」と主張したのであって、別にキョンが主役だということを叫びたいわけではなかったのですが――まあ、確かにそういう側面はあるでしょう。けれど「それぞれが主人公」という考え方は、一見非常にそれらしく見えて、実のところ極めて現実認識から乖離した考え方ではないかと思います。

僕らはキョンが何を考えているのかはもちろん、ハルヒ他の考えなどは知り得ません。僕らは彼らのそれを想像するのみ。にもかかわらず彼らを勝手に絶対な主体として理解し(あるいはそうあるべきだと断定し)、舞台の上に並べるかのような前提はまさに、単なる一参加者としての自分を、鳥瞰視点の持ち主であるという錯覚に落とし込んでいるのではないでしょうか。

ハルヒ=読者でないのはもちろん、キョン=読者でないのも明かです。ただし僕らの視点はキョンの斜め後ろくらいに存在したことは事実でしょう。そしてそこから僕らはキョンを巡って展開するドタバタをキョン自身も含めて面白おかしく観察したのですから、本世界は何よりも僕ら読者のために展開していたと言って良い(むしろ言うまでもなく)。この視点からはキョンさえもキャストとなる、というのは仰る通り。

ぼくはこのように登場人物たちを主体化することで、虚構中のキャストという位置から現実世界に引き寄せ、セカイと世界を重ね合わせようとしているのです。

主人公は常に自分一人。僕たちの限られた能力は、自分を越えた視点を絶対に持たせてくれないでしょう。僕らの世界は常に限界のある視点によって確認され、物陰は常にミステリーです。その文脈の上で、僕らは読書をする際に、その作品世界を世界と認める限り、世界のどこかに視点の座を置くしかありません。そしてキョンはそこに極めて近かった(けれど絶対的に離れていた)だけの話。

そんなキャストのそれぞれを「主体なのだ」と決め付けることは、むしろ世界内における自分の位置をあやふやにすることに他なりません。彼らはキャストであって、自分には絶対に理解不能。主体として世界の中にいる僕らは、それを想像することしかできないのだから、彼らは永遠にキャストでしょう。僕らが紛れもなく自分のこの視点に立ち、自分のいる世界をぐるりと見渡している限り。

ハルヒキョンのいずれを主人公と見なすにせよ、そのような立場からでは等しく「キャスト」なり道具なりと見なされてしまうような三人が、すでにこの『憂鬱』の時点でその道具的規定を脱ぎ捨てることができた

僕らの世界において、キャストはけして虚無的なものではありません。単に「限界的に自分でない誰か」であるというだけの話です。自分と誰かの間の狭間が絶対にゼロにならない世界。他人のことが自分のこと以上には絶対にわからない、それが僕らの生きている世界であって、それこそがリアルです。だから、繰り返しになりますが、「みんなが主人公」は空しい、空の上からの言葉だと僕は思うのです。

言い換えるなら、キャストの心配をするよりも、なぜまず自分という主体(読み手)の方向へ内省が向かないのだろうか、というのが僕の疑問です。ハルヒキョンも他の誰もが、本質的にはただの想像上の人物です。虚無がどうあろうが、自主性がどうあろうが、こればかりは動かしようのない事実。彼らについての考察は本質的に「設定いじり」に他ならず、それ自体は根本的に無意味です。

たった一つ僕らにできること、あるいは僕らが本当にすべきことは、僕らの前にそのように現れた彼らの姿と行動の落とす影から、主体としての自分の立ち位置、その視点の在処をこそ推測することではないでしょうか。物を語ることは結局のところ自分について語ることであり、読書の結末とは、その物語と読み手の世界を繋ぐ扉です。故に自分への立ちかえりなくしては、どんなに素晴らしい総括の言葉も、その意味を持たないでしょう。