ひさびさに雨の街の話。

工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版

工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版

 シンフォニック・レインってゲームがあってですね。ヒロインは双子の姉妹なんですな。
主人公は特殊な楽器の演奏能力がある少年で、双子は一卵性双生児。
妹は歌が上手い。姉は別段何も。

  同じ年に生まれた男の子と、双子の女の子達は、
  家が近いせいもあって、自然に家族ぐるみのつきあいをするようになった。
  男の子にはフォルテールの才能がたまたまあって、双子の妹には歌の才能があった。

  しかし姉には、特に何もなかった。


 大方の予想を裏切って、能なしの方の姉とつきあい始めた主人公。
恋人の妹と共に、故郷を離れた街の音楽学校に通っているけれど、どこか生気がない。
 卒業演奏まであと数ヶ月。卒検の条件である歌手パートナーを見つけ、卒業できるのか?
あと、なぜか部屋に歌の妖精が住んでる。街にはずっと雨が降ってる。


 ——というのがゲーム開始時点で明かされるストーリーと目的です。うそだよー
ずっと寝ていても卒業できます。むしろ何もしない方が何も悩まずに済むかも。
 こっそりインターネットランキング対応してる、音ゲー風味紙芝居だったりします。
L4Uが得意な人はいかがでしょう。そうそう、岡崎律子さんの遺作です。

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 シンフォニック=レイン 普及版


http://www.kogado.com/html/kuroneko/srvp/
まーた工画堂があこぎな商売を! 昨年の「愛蔵版」に引き続いて「普及版」だそうです。来年辺りには「廉価版」、再来年には「五周年記念感謝版」「岡崎律子さん追悼版」とか発売しそう。
で、なにがあこぎかって、オマケに「こんな空の下で」が入ってます。知る人ぞ知る幻の一品で、ある意味作品随一の不可解なエンドの後日談。入手が極めて困難なためにオークション等ではプレミアが付いておりました。本当に嫌なエサ(色んな意味で)をぶら下げてくるなあ。発売日は2007年11月22日(予定)、税込み5,980円とのこと。
でも、シンフォニック=レイン』自体はちょっと呆れるくらいの傑作ですから未プレイの方はぜひ手にとって見られると幸せになれます。少なくとも一生残る想い出は手に入るでしょう、間違いなく。まあ、よく考えたらこれも音ゲーだし、歌と物語の親和性という意味ではアイマスファンにはことさら味わい深いのではないでしょうか。

同じ年に生まれた男の子と、双子の女の子達は、家が近いせいもあって、自然に家族ぐるみのつきあいをするようになった。
男の子にはフォルテールの才能がたまたまあって、双子の妹には歌の才能があった。
しかし姉には、特に何もなかった。


こんなゲームです。ああ、本当に何と言うべきか。
私信:拍手での情報提供ありがとうございます。

 シンフォニック=レイン

せっかくなのであらすじ紹介くらいしておこうと思い立ち。

シンフォニック=レイン DVD通常版

シンフォニック=レイン DVD通常版

主人公は架空の楽器"フォルテール"を弾くことの出来る少年。天分に大きく左右される楽器らしく、音楽学校への特待入学が認められました。一方、ヒロインである双子の少女は、妹が声楽の素質を持っている以外、見た目から行動様式までほぼ同じ。少年は周囲の予想に反して能なしの姉と付き合い始めますが、その後故郷を離れ恋人の妹と共に音楽学校に入学。卒業を間近に控え、今や三年の別離も終わろうとしている。

で、このゲーム、ファンタジーに見えますが、実はファンタジーっぽいところはみんな嘘です。電話がないと思われることと、フォルテールなる楽器の正体が不明なこと以外、全部現実世界と同じ。ゲームの目的はとりあえず「卒業演奏のパートナーを見付けて、無事卒業する」ということになっていますが、実は何もしなくても卒業できます。ゲームの目的自体も嘘なんですね。

やったら分かりますけど、残酷なゲームです。別に暴力とかがあるわけじゃありません。いわゆる”驚愕の真相”が、何一つ事態を改善してくれないだけで。 全ての嘘の源泉が分かっても、解決というよりはパズルのピースをぶちまけられた状態になる。このゲームはそのパズルの処理を、全てプレーヤーに一任するのです。あえて言うなら、ここからがゲーム。そのくせ、パズルが完成するかどうかは保証されていない。

いやもう、新感覚アドベンチャーですよこれ? エロゲーを一本諦めて買うと良いと思います。あと岡崎律子さんの遺作という意味でも値は万金。気に入ったピースで喜ぶも良し、無理くり完成させるもよし、それだけの魅力は確かにありますからね。ええ、大御所のid:kaienさんが思わず赤色巨大フォントで


なんじゃこりゃ!


と叫んだくらい面白い作品です。

 クロニクルSR学(嘘

シンフォニック=レインを構成している諸要素のうちの相対的に恒常的な部分を「構造」として措定し、それ以外の相対的に動的な部分とその「構造」とを「機能」という概念によってつなぎ合わせようとするhajicの構造ー機能的分析は、S=Rの各要素が他のすべての要素と関係しつつ全体性を統合するという方向性をもって機能している、という見解を暗黙のうちに前提しているという点で、KEYのデジタルノベルを中心とした「統合されるセカイ」という状況認識ときわめて適合的な関係にあった。そしてそうであることによって、構造ー機能理論は多くの読者に受け容れられた。だが他方でそれは、構造ー機能的分析が批判されるひとつの論点でもあった。
たとえばmkzである。彼は早くも2005年代初頭に、hajicの「誇大理論」は概念の物神化と「意味」への盲目という傾向をもつと同時に、「正しい規範」の形態を正当化するというイデオロギー的立場に立っていると言って痛烈な批判を浴びせかけた。のちに竜騎士07が定式化した「ババ抜き理論」へと批判的に継承されることになる、いわゆる「無条件絶対評価!相手は死ぬ理論」を提唱したErlkonigもまた、hajicの演繹的方法に対して帰納的方法を用いながら、構造や統合といったマクロ現象ではなくキャラクター行動それ自体を直接、研究するのが感想文であるという立場を堅持することによって、早い時期にhajic批判の論点を打ち出したVNIのひとりであった。

 KANON:声部2006

京アニが2クールを費やしてせっせと敷いてきた伏線。彼らは実に2クールを費やして、はっきり言ってつまらない、誰に向かって語りかけているのかさえ分からないような作品を生み出してきた。彼らならおそらく、もっともっと愉快な別の物語を作れたはずなのに、である。けれど、だからこそ、この当惑がまさに『KANON2006』という作品が歴史的なレベルで包含する伏線であると、僕は確信する。

KANON』とは、その主人公祐一が7年ぶりに雪の降る街に戻るところから始まる作品だった。それから7年、偶然ではありえない符合を与えられて始まった『KANON2006』。ならばそれは結局のところ、1999年にKANONを体験し、それから7年の月日を経てきた僕らLeaf/Key世代の各「祐一」に向け語られている作品に他ならない。7年前、ある出来事から逃げ出した僕らに、まっすぐ視線を合わせて。

つまり、これは京アニからの明白な挑戦である。7年の歳月の中、君たちはどのような答えをそれに与えたのか(あるいは逃げたことさえ忘れたままでいるのか)? 彼らは2クールのほとんどを費やして綿密に「おさらい」を行った。そしてこれから彼らなりの「回答」を見せてくれるだろう。その答えはおそらく、誰にとっても快いようなものではないはずだ。それが何故かは、言うまでもない。

デジタルノベルは偉大と言っていい歴史を、複数の流れを持ちながら駆け足で遂げてきた。京都アニメーションの『KANON2006』は、その歴史の一つの証人になってくれるだろう。『KANON』が放った奇跡。それはその内部のみならず、外部にも対位する作品たちを連ねて奏でられた奇跡の追復曲の第1声である。様々な悲喜劇をうちに秘めたその系譜は、今まさに歴史的なコーラスへ向けて進む。


参考:マブラブに思う2 http://d.hatena.ne.jp/hajic/20060305/p1