Guareschi, Don Camillo:MONDO PICCOLO 2.BATTESIMO

 ドン・カミッロ 第二話:洗礼


 突然、一人の男と二人の女が教会に入ってきた。女の一人はペッポーネ、つまり社会主義者のリーダーの妻である。
 階段の上から二段目に立ち、シードルで聖ヨセフの光背を磨いていたドン・カミッロは、振り向いて何の用かと尋ねた。


 「洗礼してもらいたいものがある」と男が答え、女の内の一人が赤ん坊の入った大きな手提げを掲げてみせた。
 「いったい誰がこしらえたんだ?」 ドン・カミッロは階段を下りながら尋ねた。
 「私です」とペッポーネの妻が答えた。
 「旦那といっしょに?」 ドン・カミッロは重ねて訊いた。
 「当たり前です。ご存じのくせに。一体誰の子だったらよかったんです? あなたのですか?」 ペッポーネの妻は無愛想に言い返した。
 「怒られる筋合いはない」 ドン・カミッロは聖具室へ歩きながら意義を唱えた。「私は良く知っている。一体、君たちの党は自由恋愛ということではなかったのかね?」


 ドン・カミッロは祭壇の前でお辞儀し、磔刑像のキリストに向かって目を細めた。
 「お聞きになりましたか?」 ドン・カミッロは嘲りながら続けた。「あの無神論者たちに一発かましてやりましたよ!」
 「馬鹿なことを言うな、ドン・カミッロ!」 キリストは即座に答えた。「もし彼らが無神論者なら、子供の洗礼のためにここにやって来るわけがない。ペッポーネの妻がお前に平手打ちをくれていたなら、いくらかお前のためになったのだが」
 「もしペッポーネの嫁が私をひっぱたいていれば、私は今頃あの3人全員の首根っこを捕まえて・・・」
 「捕まえて?」
 「なんでもありません。言葉の綾です」 ドン・カミッロは慌てて身を起こしながらそう言った。
 「ドン・カミッロ。言動に気をつけよ」 キリストは彼に警告した。


 ドン・カミッロは式服を着て洗礼盤に近づき、ペッポーネの妻に尋ねた。
 「それで、どんな名前がいいのかね」
 「レーニン・リーベロ・アントニオ*1」と、ペッポーネの妻は答えた。
 「ロシアで洗礼して貰っておいで」 ドン・カミッロは洗礼盤にふたをしながら言った。


 ドン・カミッロがまるでシャベルのようにその大きな拳固を握りしめていたので、3人はものも言わずに立ち去った。ドン・カミッロは聖具室からうまく逃げだそうと試みたが、キリストの声が彼を遮った。


 「ドン・カミッロ。お前はとても醜い振る舞いをしたぞ! 今すぐ彼らを呼び戻しに行って、あの赤ん坊に洗礼を授けるのだ」
 「イエス様」。ドン・カミッロは答えた。「どうか思い出していただきたいのですが、洗礼はこれっぽっちもお遊びではないのです。洗礼とは・・・」
 「ドン・カミッロ」。キリストがそれを遮った。「お前は私に洗礼のなんたるかを説くつもりかね? それを作り出した、この私に? はっきり言っておくが、お前はひどい職権乱用を行ったのだ。もしもあの赤ん坊が今死んで、天国へと入ることができなくなったなら、それは全てお前の責任になるのだからな!」*2
 「イエス様、極端な話は止めましょう!」 ドン・カミッロは反論した。「どうしたってあの赤ん坊が死ぬって言うんです? だって肌は白くて血色も良く、まるで薔薇のようにつやつやしてたじゃないですか!」
 「そんなことではない!」 キリストは叱責して言った。「赤ん坊の頭には瓦が落ちてくることもあれば、卒中が起こる可能性だってあるのだ。とにかくお前はあの赤ん坊に洗礼を授けなければならない」


 ドン・カミッロは両手を広げた。
 「イエス様、少し考えてください。あの子が必ず地獄にいってしまうというのであれば、そのまま行かせるがいいと思いますよ。しかしまあ、例えあれがひどいろくでなしの息子だとしても、何かの間違いでひょっこり天国に行くことがないとは言えませんな。わかりました。では私はどのようにして、レーニンなんて名前の人間が天国に行くことを許せばいいんです? だから私はあの子のために天国向きの名前をくれてやりますとも」
 「それを考えるのは私の仕事だ」 キリストは大声で言った。「私が気にかけるのは、彼が正義の人であるか否かだけなのだ。彼の名前がレーニンだろうが、ボタンだろうが、そんなことは私には何の意味も持たない。お前が何かするべきだったとすれば、せいぜい、突飛な名前を与えられた子供はきっと大人になるとそれに迷惑すると、両親を諭すことだったのだ」
 「わかりました」とドン・カミッロは答えた。「私はいつだって間違っているんです。なんとかこの埋め合わせを考えます」


 ちょうどそこに一人、誰かが入ってきた。赤ん坊を胸に抱いているペッポーネである。ペッポーネは扉を締めて掛け金をかけ、言った。
 「俺の望む名前が息子に付けられない限り、俺はここから出ないぞ」
 「そら来た」 ドン・カミッロはキリストに向き直りながら囁いた。「ほら、これがどんな状況か、お分かりになりましたか? この優れて聖なる心持ちに満ちた男に対し、あの連中がどんなあくどい手を使うのか、じっくりごらんください」
 「彼の立場を推し量ってやるのだ」とキリストは答えた。「けして賛成できるやり方ではないが、理解することはできる」


 ドン・カミッロは頭を振った。
 「俺の息子に俺の望む通りの洗礼名を付けない限り、俺はここから出て行かないからな!」とペッポーネは繰り返し、赤ん坊をくるんだ手提げを長いすの上に置いた。それからジャケットを脱ぎ、腕まくりをしながら、のしのしとドン・カミッロの方へと歩き出した。
 「イエス様」 ドン・カミッロは切に願った。「私はあなたを信じているのです。もしもあなたが、あなたの司祭が個人的脅迫に屈服することを是とされるのであれば、私は屈服するでしょう。その代わり、明日連中が子牛を連れてきて洗礼しろとすごんでも、泣き言を言ったりしないでくださいよ。先例を作ってしまうことの面倒くささについては、よくご存じでしょうから」
 「うーむ」 キリストは答えた。「こうなってしまっては、お前はなんとか彼に分からせてやるしかないだろう・・・」
 「では、もし奴が私に手出ししてきたなら?」
 「甘んじて受けなさい、ドン・カミッロ。耐え、苦しむのだ。私がしたように」


 ついにドン・カミッロは振り向き、言った。
 「よし、ペッポーネ。お前の赤ん坊を洗礼してここから出してやる。だが、あの呪われた名前以外でだからな」
 「ドン・カミッロ」 ペッポーネはぼそぼそと呟いた。「ご存じの通り、俺の腹は昔山で食らった弾丸のせいでデリケートなんだ。あまり下の方を狙わない方がいいぞ、さもないとそこらの長いすの上でゲーゲーもどされるはめになる」
 「安心しろ、ペッポーネ。ぜんぶ上の方を狙ってお前を片付けてやるから」 ドン・カミッロは耳に挟んだ扇子の位置を整えながら答えた。


 並び立ったのは互いに鋼の腕を持ち、平手で風切り音を出したがる二人の大男たちである。20分の猛烈で、しかし寡黙な取っ組み合いの後、ドン・カミッロは背中から声がかけられるのを聞いた。
 「がんばれ、ドン・カミッロ。顎を狙うのだ!」
 キリストは祭壇の上から応援していた。ドン・カミッロは言われた通り顎を狙い、そしてペッポーネは地に倒れた。
 長い間、約10分間ほどのびていたペッポーネだが、むくりと起き上がり、顎を撫でさすって身繕いをした。それからジャケットを身につけ、赤いネッカチーフを結び直し、赤ん坊を胸に抱いた。
 普段の式服を着、彼が来るのを洗礼盤の前で石のように待っているドン・カミッロに、ペッポーネはゆっくりと近づいた。


 「どんな洗礼名がいいのかね」と、ドン・カミッロは尋ねた。
 「カミッロ・自由・アントニオ」 ペッポーネはまた、ぼそぼそと呟いた。


 ドン・カミッロは頭を揺すり、言った。
 「まあ待ちなさい。そうではなく、リーベロ・カミッロ・レーニンにしようじゃないか。うん、レーニンも入れておこう。というのもカミッロがそばにいれば、彼のような人間だって、何も悪いことはできないだろうから」
 「アーメン」 ペッポーネは顎を触りながら、もごもご唱えた。


 何もかもが終わって、祭壇の前を通り過ぎようとするドン・カミッロに、キリストは微笑みながら語りかけた。
 「ドン・カミッロ。本心を明かさねばならないな。政治のことになると、お前は私よりも良いやり方を知っている」
 「そうです。だから、乱闘に関しましても」 ドン・カミッロはおでこのこぶをゴシゴシとさすりながら、とても丁重に答えた。*3



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おまけ


 
 小さなカミッロ、つまりペッポーネの息子が初登場する、記念すべき回です。とは言え、まだ赤ん坊なので、彼が活躍するのは少し先になるのですが。


 
 ペッポーネの過去についても、若干の仄めかしがありました。後々、今は前衛的な社会主義者であるペッポーネですが、かつては。短い文章の中に、いろいろな伏線が敷かれています。


*1:訳注:レーニンは説明の必要のない、ウラジーミル・イリイチレーニンのこと。社会主義革命を最初に成功させ、ソビエト連邦の建国者となった。リーベロ(自由)はむしろリベラル的なニュアンスか。アントニオはイタリア社会党の伝説的な人物であり、作中時間ではちょうど病没したばかりであったアントニオ・グラムシからだと思われる。なお、大抵のイタリアの都市では、彼の名がどこかの街路に冠されている。

*2:訳注:キリスト教では、洗礼を受けず死んだものは、天国に行けないとされている。

*3:訳注:政治家の仕事の一つが乱闘であるのは、日本に限った話ではないらしい。