メルロ・ポンティ

メルロ・ポンティ (Century Books―人と思想)

メルロ・ポンティ (Century Books―人と思想)

私たちが肉体を持って世界の中に位置するために、世界はいつも私たちの前にパースペクティブとして現れる。つまり私たちがこの世界の中に立ち、視線をもって見渡している限り、すべての物は常に見えないある面を持つ。私たちはけして天上の神ではないし、また世界の外に立っている批判的観察者でもない。私たちは自分自身の顔さえも見えないままに、この世界の中にいる。

とにかく視覚にこだわった哲学者で、世界の遠近法的展望、つまるところ人間のあらゆる知覚の仕組みとそれがもたらす結果を、見えるものと見えないものというポイントに落とし込んで考察した。つまり、私たちは立方体を立方体そのものとしては絶対に知覚できないけれど、見えるものを通して見えない立方体という存在を知覚することができる。

当たり前のことかもしれない。ただ、「だから常に間違い得る」という彼の主張が面白い。その意味で彼の哲学は、きわめて「諦め型」だと言える。もちろん、哲学者が求め続けてきた真理の存在の確信が、皮肉にも、真理を求めるために神を否定したことで崩壊して以来、哲学者はいつも諦め型だった。けれどしばしば”極端な客観主義を装った極端な主観主義”に陥ってしまっていたそれらと、彼の思考は明らかに異なる。

メルロ・ポンティの思考は、常に自分の視線に基づいて展開される。彼は、世界を外から眺めようとは思わない。自分と言うそれ自体見えない存在から、徐々に視線を地平の果てまで伸ばしていく(あるいはその逆)。その意味で彼は完全に主観主義である。けれど、だからこそ彼は常に間違うことを確信していた。常に間違いながら、より良い選択を目指して、あらゆる見えるもののうちから、見えない意味を拾い上げ続ける。結局のところ、それしか手はないのだ、として。

常に見えないものはある――それはつまり「絶対に本当のところはわからん」ということ。けれど、絶望するには当たらない。彼がいつも引用していた言葉、それは「もっと遠くへ行く」。この世界が常に見えないものを内包しているとしても、そのことはこの世界が無限の意味、それが生み出す尽きせぬ喜びを持つことの証であり、すべてを見ることが絶対にできないとしても、地平に向けて歩き続けることはできるのだ。