Recognition of more than *one* hypothesis

科学と宗教の区別がつかない人はいい加減どうにかしてくれ
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20081117/p2

 科学は宗教とは違う、絶対とは言わない点で宗教と科学は異なるのだ、という言説は、まあ、言わんとするところは分かるのだけれど、どうも根本的に宗教に対する無知や蔑視を匂わせて好きになれない。

 現在の西洋文明の覇権を支える思考規則である科学を生み出したのが宗教、つまり西洋文明のバックボーンであるカトリック神学の方法論だってことを理解していたなら、簡単に科学=理性的・宗教=妄信的という二項式を立てることには、少なからずの躊躇があってしかるべきだろう。

 僕はカトリック以外について勉強した経験はないから、他の宗派について語ることはできないし、科学についても義務教育で学んだ以上の知識は持たないけれど、我々は理性によって真実(あるいは、より確からしいもの)に到達できるはずだという原則は、両者に共通する認識ではないのか。

 理性により神を証明できると考え、最終的に失敗したカトリック、その権威が地に落ちた結果、人間理性は神に代わるはずだという思考が台頭した。中世を暗黒の時代として葬り、学ぶべきもの一つ無い傲慢な教義としてスコラ哲学を忌避するこの風潮は、近代理性の神話が破綻した後も長く生き延びている。

 事実、バチカンは数々の科学者を火あぶりに(「最大の寛容の心をもって、無血の罰を与える」)してきたけれど、だからといって現在もそうだと決めつけるのは乱暴すぎる。お隣の国々が60年前の事件をいつまでも論う様を見ている僕ら世代にとって、この手の思考硬直の無益さは骨身に沁みているはずだ。

 しかし歴史というものは皮肉なものである。信仰を科学的に支える努力をしたヨーロッパが、教会の教義に離反する近代の科学を生みだし、その後の世界の運命を決めたのである。つまり近代に入って、信仰によってよりも、科学技術による世界支配が、ヨーロッパで実現することになったのである。実際、信仰を科学で支えようとすることなど、現代人は笑止の沙汰と思うだろう。しかしこの努力(エネルギーの集中)がなければ、ヨーロッパ科学は生まれなかったかもしれないのである。近代科学を、教会からの離反としてのみ見る人には、教会を支えた神学が、実は科学性を追求したものであり、それが近代科学を生み出したという側面を見落としてしまうだろう。