猫のシャミセン


笑えない冗談だな
笑いたくなるわよ。そのうち


涼宮ハルヒの憂鬱』に登場する飼い猫、シャミセンの名前の由来は、おそらく落語『猫の忠信』からだと思われる。父母を三味線の材料として失った仔猫が、男に化けて持ち主の義太夫のお師匠さんのところへ転がり込むという話で、件の仔猫が化けの皮を剥がれ、自分の身の上をとうとうと語るちょっぴりホラーなクライマックスから、どうしようもない落ちまでのスピード感は素晴らしい。とは言え義太夫など「なにそれ」的な人も多かろう今日、舞台設定が時代錯誤にもほどがあって、実際のところあまり可笑しいお話ではない。それどころか美人で有名なお師匠さんは猫と温い刺身(詳細は落語を聞いて貰いたい)を食べさせられるし、猫が化けた男の本物は危うく悋気しいのおかみさんに縁切りされるところだった。原因は男の兄弟分の告げ口だというのがいかにも酷いし、猫の両親と来た日にはあわれ生皮を剥がれて三味線の表と裏に貼られたのである。芝居仕立てのドタバタ結末で誤魔化されがちだが、冷静に考えるといかにもドロドロした金田一風の噺である。
考えてみれば、落語のネタはそういうものが大変多い。語り手が落ちを付けてくれるから安心して聞いていられるものの、これが講談だとしたらあまり洒落にならない。逆にあえてそういう元ネタから始めて原作とのコントラストを楽しむ系統もあるけれど、扱っているものの本質はますますタチの悪いものばかりだ。実際のところ、落語の本質は笑えない。落ちはある意味奇跡である。ところで、この手のあまり詰まらないドロドロ噺は上方落語に限ると思う。要所要所に鳴り物を入れて持ち上げてくれるのは、笑い話としての洗練の度合いが江戸落語に遠く及ばない証拠なのだろうが、だからこそ不器用な人情のもつれがますます身近に迫ってくる。いかにも苦い笑いが味わえる。酸いも甘いも噛み分けながら、情と執著に足を取られる、自覚した悪人としての上方文化の名残がそこにあると思う。桂米朝の『愛宕山』『たち切れ線香』は名作なので是非聞いてもらいたい。人生泣き笑いである。

っと、ともあれそんな由来で、あの口を利く猫にはシャミセンと言う名前が付けられたのではないか、という話だった。なかなかのセンスだと思う。まあ、なんだかだんだんと、ただの便利キャラになりつつあるような気がするけれど。今回もかこつけて良く喋らせてくれたし。