Someday in the Rain, 誰かの憂鬱

そしてハルヒに至り、京都アニメーションは「結末は終わりと同義ではない」という認識を明示的に展開する。もう周知の事実となっているが、放映第9話とは作品内の「時間軸において」は最終話なのである*1。彼らによってシャッフルされた物語構造は、その作品に、終わりなのに終わらない、という矛盾したような状況を生み出している。混乱を防ぐために単純化するなら、本作品には二つの終わりが存在するということになる。一つは時間の、そしてもう一つは物語、あるいは意味の。そしてこの二つを混同してしまったところにこそ、FATE/ATARAXIAの辿り着いた悲劇があったと言えよう。


それは物語を終わらせることについて、酷く自覚的な彼らだからこそできたこと。京アニスタッフは、「時間の終わり」をこれ以上なくさらりと描いてしまうことで、圧倒的だった前者の結末という壁を簡単に駆逐する。おたく文学が逃げ続けてきた「終わり」は、彼らによってあっさりと乗り越えられた。つまり時間の終わり、あるいは描かれた物語の終わりなどというものは、世界の終わりでも何でもなく、実はただの「ある雨の日」に過ぎなかったのである。そして今、ハルヒの物語が突入しようとしているのは、まさに物語の、意味の結末への扉。

*1:まだ明確にはわからないが、おそらくそう。