イタリア的考え方

イタリア的考え方―日本人のためのイタリア入門 (ちくま新書)

『ある意味では、この本もイタリアの幻想の一部に他ならない』


「日本人のためのイタリア入門」と副題にあるこの本は、私たち日本人が持つイタリア像の偽り、その思いこみを否定する目的で書かれている。イタリアのイメージ。原色、恋、享楽的、怠け者etc..。連想はとてもスムーズに行われる。まるでそれを知り尽くしているかのように。だが実際に彼の国を訪れた人は知っているだろうが、それらはかなりの程度、つまり「京都人全員が性格が悪い」という噂の真実程度には、正確とは言えない(嘘だと言うわけでもない)。それはある面で、イタリアという国を包む幻想である。私たちはイタリアを何だかとても親しく感じているにもかかわらず、その反面、この国には驚くほどイタリアに関する情報が少ない。私たちはイタリアを知らないのだ。その最大の現れの一つとして、大学にはロシア語の授業はあっても、イタリア語のそれはないのである!

著者は日本在住のイタリア人。文章は上手いのだけれど、文化記号論の研究者らしく(イタリアと言えば記号論だ――これも幻想?)、主張が時折少々難解になる。彼の主張を端的にまとめるなら、現代世界は数々の恐るべきイベントの末、堅固な理念はろくな結果を呼ばないという教訓を得た。ゆえに私たちは「弱い思想」、すなわち何かに固執せず、文脈に合わせて各自勝手にコロコロ変わることを許す精神的姿勢を身につけるべきだ。それこそがイタリア的なスタイルの源泉であり、イタリア的なすべてを理解するキーワードであり、あるいは明治以来日本人が失った多元的な精神性なのではあるまいか。イタリア人が見た目を操作するすべに長けているのは、物事の相対性を信じるがゆえであり、イタリア人が話好きなのは、それが置かれている文脈を明らかにせずには、何も語れないと考えているからである…。

正直に言って、何が言いたいのかよくわからないし、オタク的にはあまり面白い本ではない。ただ、イタリアの現状や風俗への記述は情報として興味深かった。例えば「北イタリアを中心とした独立運動――北部同盟とPadania」や「政府系秘密組織によるテロ行為」は、誰にでも『Gunslinger Girl』を思い出させるだろう。パダニア独立運動は北部の裕福な人々の支持を得て、”イタリアらしいイタリア”を、つまり”バイオリンを抱えて綺麗なイタリア語を話す、愛らしい少女の住む国”を目指す。もちろん、ご存じの通り、その少女こそは政府の暗殺者に他ならないわけで、ここにPadaniaたちの欺瞞と悲しさがある。いわゆるイタリア語はフィレンツェあたりの方言であって、”イタリアの言葉”ではない。何より、そもそもイタリアという国の存在、そのアイデンティティ自体が作り物の幻想なのだ。にもかかわらず、それを信じてしまうことの過ち。

(ついでに言うなら、「学生は普通、アルバイトをしない」は、『シンフォニック=レイン』でファルシータがアルバイトをしていることに対し、クリスたちが感じた驚きの理由を教えてくれる。高等教育はエリートの特権であるために、学生たちにとって、アルバイトをすることはかなり抵抗があることらしい。にもかかわらず、優等生のはずのファルはアルバイトをしていた。なるほどね)

地方ごとの文化の差異と多彩な方言。食べ物に対する愛着。人工的な国家アイデンティティ。基本的には陽気だけれど、心の底に流れる一種の諦念。見えるものと見えないもの。イタリアという国は、どこか日本と似ている気がする。だからこそ、私たちはイタリアに惹かれるのかもしれない。著者はこう述べている。「日本文化の中でのイタリアは、日本のイメージそのものである。イタリアについて述べるとき、多くの日本の文筆家は、実は日本のあるべき姿をそこに描き出しているのだ。日本にとってのイタリア、そしてイタリアにとっての日本。それはまるで合わせ鏡のように、互いに互いの気付かざる側面を映す。二つの国は秘密の双子なのである。」


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