クレド

 カトリックにもゆとり教育みたいな時代があって、各国語に翻訳された平易な文章でミサをあげようという流れの結果、他の国の典礼は言葉の問題でさっぱりわかんないという障害が発生した。ゆえに今教皇庁で復活が検討されている世界共通ラテン語ミサはどこの国の人でも理解できるからまさに普遍であり実際すごい。我々もぜひ行ってみようじゃないかと言うスペイン人の友人に連れられて夙川の教会に赴いたある日のこと。

 「聖書は嘘ですよ。嘘やから大事なんです」。

 変なおっちゃんがいた。その初老の男性はメガネ越しに僕をジロッと見てそう話した。よりにもよって夙川の教会でめちゃくちゃ言うおっさんである。ハラハラしている僕を尻目に彼はさっさとどこかへ行ってしまい、友人は「面白いおじさんでしょう」とニコニコしていた。聖体を貰っていたから信者のはずなのにあれが異端扱いされてないのはおかしい。

 おっちゃんはおかしいけれど「嘘だから大切である」という逆説的な考え方はとても心に響いた。人の命の重さは同じとか、職業に貴賎はないとか、人生には意味があるとか、だいたいの物事は嘘とまでは言わなくても根拠は特にない。根拠はなくとも、そういうものが良いものだということを僕らは知っている。大切にしなければならないと思っている。ただし、しばしばそこに根拠はないことを忘れて、変なことになる。

 彼は「聖書は嘘だ、嘘だから信じるのだ」と言いたかったのだろう。「いくら考えても嘘だとしか思えなかったので、信じることにした」みたいなことを書き残した僧侶もいるらしい。実際、万事そういうものじゃないかなあと思う。オチは特にない。