ミシュランガイドの尻馬にのって、美味しい汁を吸おう

 


 ミシュラン・ガイド京都・大阪がいよいよ10月16日に発売されるということで、巷ではミシュランについての論議が再燃している。ネットでよく目立つ主張は、「どうして毛唐どもに日本の料理が品評されねばならん」「押しつけがましく傲慢さを感じる」というもの。先日東京版が発売された際も同じ騒動があったが、世情はまったく変化していないようだ。


 ミシュランに格付けされるということがどういうことなのか、日本文化の文脈ではニュアンスが分かりにくいと思われる。実のところ、美味しいかどうかの問題ではないのだ。簡単に言ってしまえば、彼らの社会的ステータスに見合うかどうか、という話なのである。文化的で優雅、洗練されたタイトルを与えられること、ぶっちゃけ貴族サークルの入会審査だと言ってもよい。


 だからこそミシュラン内部の人々には、どうして日本人がここまで反発するのかについて、まったく理解ができない。社会ヒエラルキーが明白な欧州で、紳士の肩書きを欲しがらない人間など、あるいはすすんで卑しく非文化的な身分に留まろうとするなど、聖人でなければまず気違いだ。わけがわからないのである。やっぱり黄色人種は猿の一種か、程度に考えているかもしれない。


     ☆    ☆    ☆


 


 もう少し詳細に見てみよう。ミシュランガイドの成立は、他の著名なガイドブックと同じく、19世紀を中心とした交通鉄道網の整備、それに伴う裕福な市民の旅行ブームに伴うものだった。それまで貴族の特権であった長距離旅行が、一般市民(といってもブルジョワなのだが)の手にも解放された結果、遠方に身寄りを持たない彼ら(貴族たちはローマ時代から貴族同士で融通をしていた)のために、彼らに見合うレベルの食事・宿泊所情報が必要とされたのである。


 また、近年の欧米に流行する、美食ブームという側面もある。「日焼けした筋肉質な痩身」が富者のステータスとなって(昔の王様はデブだった)以来、健康な食事(油脂類の忌避とビタミン神話)に対する欧米人の注目は高まり、そこに宮廷由来の美食学(ワインとご馳走)が参加することで、高品質な(そして当然、高価な)食事を選ぶことは文化的で洗練された紳士の嗜み、というあたりに落ち着いた。つまり、高品質な食事(そして宿泊)は、彼らにとってのステータスシンボルに他ならない。*1


     ☆    ☆    ☆


 


 平たく言えば、ミシュランとは、欧米の特権階級(ブルジョワ)のための品質保証書なのだ。世界文明の頂点に立つものとしての西洋文化を背負う彼らは、当然ながら自らの存在に高いプライドを感じている。そのプライドに見合うものとして、ガイドに記載するということは、相手を同種の存在として敬意を払うという認識さえ含む。だからこそ、彼らにとってもこの件は不愉快なのだ。


 もちろん、ある種の傲慢さを感じずにはいられない視点ではある。「俺はすごい、その俺が認めるんだからお前もすごい」的な発想に、少なからずの人々が反発を覚えることは当然だ。とは言え、「お前ら程度に品評されたくない」ではお互い様である。正直なところ、これはどっちもどっちの話で、だからこそ僕などは、どうせ向こうがもうけ話を持ちかけてくれているのだし、尻馬に乗っておいた方が得じゃないかな、などと思うのだが・・・・・・いかがでしょうか。


 平たく言えば、欧州から品の良い金持ち客がたくさん来るってことですよ? クールマイヨールの別荘とか招待されちゃいますよ? きっと、楽しいですよ。



参考:
「ミシュランガイド京都・大阪」、10月16日に初刊行
ミシュラン京都・大阪版、10月発刊


*1:付け加えて言うなら、貴族のように家名、つまり伝統を持たないブルジョワたちにとって、伝統や歴史といったものは憧れの対象である。先日(何だったか忘れてしまったが)発表された、欧米人から人気のあるアジアの宿泊施設ランキングで、日本の伝統的な旅館が一位二位を占めたのは、その辺りに深く関係している。つまり、ここで言うところの「高品質」とは、健康的で、豪華で、できれば伝統的なルーツを持つ、あるいは格式に裏付けられた(ように見える)食事・宿泊を指す。