feminaはfenomena

シンフォニック=レイン DVD通常版

シンフォニック=レイン DVD通常版

「なぜ魔法少女は少女なのか」という考察が別冊宝島か何かに載っていた。世紀が変わる前の文章だったけれど、新世紀が来ても魔法少女は少女の独占物である。なぜ魔法少女は少女なのか。どうして魔法少年ではいけないのか。
数日前、現代ロマンチシズムの産物としての謎の少女、という内容の文章を書いた(リンク)。 少年よりも遙かに高度な現実認識力を持ち、事実の裏表を操りながら、少年の小さな世界を統べる存在。いわば日常のミステリーの核としての少女、という定番キャラクターである。
宮台真司は小説『海がきこえる』の解説において、ヒロイン武藤里伽子に「少年には理解できない少女」、すなわち現実社会や人間関係への冷徹な分析力と行動力を備え、同年代の少年たちを置き去りにしていった現代少女たちの姿を見いだし、その”神性”を讃える内容の文章を残している。理解できない、崇めるべき、謎の少女。
興味深い点、それは少年が(あるいは読者が)彼女を理解できない理由とは、けして彼女の荒唐無稽さによるものではなく、むしろその冷徹で卓越した現実理解による、という点だろう。彼女らが少年の世界を操作できるのは、少年よりも遙かに現実的であるがゆえなのだ。
「よく出来た科学は魔法と区別がつかない」というフレーズをたやすく思い出させるこの現象は、魔法少女が少女でなければならない理由に、逆説的な説明を与えてくれるかもしれない。つまり、この文脈において、実際に魔法を使っていたのは、むしろ少年たちの側なのである。
その中央に”謎の少女”を含む作品において、当初の少年の世界というものは、「彼女により披露される恐るべき真相」によって破壊される現実認識とほぼ同義である。少年の理解の範疇を越えた認識の提示が、彼の世界を一変させてしまう。まるで魔法が解かれたように。
ラテン語において、認識や科学、そして真実といった単語は、女性名詞として扱われてきた。神や神の子、そして聖霊が男性的シンボルだとしても、それらが象徴する真実、言葉、愛、といった概念は皆女性形である。荒唐無稽なキリストの復活劇も、実際にはその後「哀しみの母」が強調されていったように、恐らく全員が本気で信じられたわけではあるまい。
そう考えてみると、案外、魔法少女という概念は、人類規模で数千年の歴史を持っているのかもしれない。そして彼女らの魔法が開帳してくれる秘密、つまり”現実の痛み”というやつも、わりと定番のように見える。どうやら当分の間、魔法少年が入り用になることはなさそうだ。