熊と森と

熊森協会の女性と話す。実際問題として林業関係者にとって熊は害獣である。遭遇時の襲撃が恐ろしいのはもちろん、熊剥ぎと呼ばれる根元付近の樹皮を剥がす行為で、出荷に適した樹齢の、しかも樹勢のよい、すなわち将来的により収入を期待できる樹木が狙い撃ちで傷つけられ、時に枯らされる。迷惑極まりない。
ただし、この視点から見れば鹿も害獣だし兎も害獣だ。鹿は角で木の皮を剥ぐし、兎は植林したての若木の芽を食べつくす。また山間地の農家にとって、上記に加えイノシシやサルが害獣となる。結局のところ、山間地で農林業を営む人々にとって、動物保護は好ましいことではない。現在でも鹿などは多すぎるほどであり、熊などはいっそ居ないほうがとは言わないまでも、もっと少なくてもよいと考える人は多い。時代の潮流に反しているのは明白、これはこれで問題ではある。
一方、熊森協会の言い分はいろいろあるのだろうけれど、少なくとも彼女と話していて強く感じたことは、「熊の生育圏を守ろう」という自らが掲げる目標に対し、当然発生してしまう各所からの反対論に出会ったとき、何もかも「あなた達が変わっていくべきだ」と言い切る傾向である。
確かに、生物の多様性を保護するために、熊をはじめとした野生動物保護活動が必要である、という意見は理解できる。しかし同時に、農林業を営む人々にとって、例えば熊というものは、直接・間接的に生命にかかわるレベルの脅威だ。街の人間が何を言うか、熊はプーさんではないという感情的な反発は当然理解できるし、むしろ理解されるべきだろう。
おそらくそういった感情的な反発にぶつかり続けたことが、熊森協会の方針をかたくなにしてしまったであろう歴史的な経緯も容易に想像はできる。けれどもそれでも熊の保護は、直接的な脅威を誰かに与えることが明白なのだ。ただ頑なになるのでは、何時までも一般の理解は得られまい。
彼女たちに最も欠けていて、ゆえに最も必要なことは、結局のところ説得力のあるアルタナティブの提示、という姿勢ではないかと思う。「杉やヒノキの植林は良くない、もっと混交林を」「熊や野生生物の保護を」と叫ぶのはよい。
ただし、それが直接的な負担となる当事者に対し、何の具体的で説得力のあるインセンティブも提示しないというのであれば、それは単なる負担の押し付けであり、それで「我々の活動が理解されない」と憤慨するのは、あまりに独りよがりが過ぎる。
そんな気がした。