ARIA・見えない都市

見えない都市 (河出文庫)


「眼差しは市中の通りをあたかも書物のページの上のように走り抜けてゆきます。都市は人々が考えるはずのことをすべて語り、ただその言葉をわれわれにくり返して言わせるばかりでございます。人々はタマラの都を訪れ見物しているものと信じているものの、その実われわれはただこの都市がそれによって自らとそのあらゆる部分を定義している無数の名前を記録するばかりなのでございます」 
――都市と記号Ⅰ


以前書いたARIAの感想(リンク)Web拍手でコメントをいただきました。胡散臭いと言えば主要キャラの家族がほとんど出てこないのはどうだとのこと。どういう含意を持つコメントなのかちょっと分かりませんが、メタ言論チックな背景に関するものだとして少し。
いくら創作世界だとは言っても素敵なことばかり書いているとファンタジーの摂理を失って完全な夢物語になるわけですが、ARIA世界はどうみても作者にとってのユートピアのようですから「現実味がない」のは当たり前も良いところ。ただしあえてそれをファンタジー、あるいは現実の写し鏡(”空想/現実でない”ためには現実の把握がどうしても必要)である空想世界として読んでみる場合、「胡散臭さ」という名の下に様々な皮肉を拾い上げることができるのは確かです。
それは言い換えるなら僕が先日ARIAに関して行った野暮であり、SRを通して行っている問題提起でもあるのですが…ARIAという物語がそういった理屈を超えて僕の興味を刺激する「胡散臭さ」は、はたして現実のVeneziaという街、例えば僕にとってのあの街もまた、幻想の中に存在しているのではないかという真逆の仄めかしなのでした。

このような観点からは、55の都市になぞらえられた物語論、イタロ・カルビーノのその名も『見えない都市』は大変興味深く読めるように思えます。


「都市もまた、精神か偶然の産物であると信じられております。しかしそのどちらも、城壁を支えて行くには十分でございません。都市から得られる歓びは、その七不思議、七十七不思議などではございません。ただ我々の問に寄せるその答でございます」
「さなくば、テーバイの街がスフィンクスの口をかりて発するがごとく、返答を強いる問かだ」
――(間奏)Ⅲ