その時あなたと楽園で

【も し も 磯 野 家 に 池 沼 が い た ら】

1 :以下、佐賀県庁にかわりまして佐賀県民がお送りします
:佐賀暦2006年,2006/10/24(佐賀県警察) 15:38:34.43

サザエ「みんなー、ご飯よー」
ワカメ「はーい」
タラ「はいですぅ」

マスオ「今日もおいしそうだね、サザエ」
波平「母さん、お茶をくれんか」
フネ「はいはい・・・ほんとに人使いが荒いんだから」

カツオ「あうううううあぅぁああああっ・・・」

タラ「カツオお兄ちゃん・・・それはタマの餌ですぅ・・・」


7 :以下、佐賀県庁にかわりまして佐賀県民がお送りします
:佐賀暦2006年,2006/10/24(佐賀県警察) 15:47:04.43

中島「こんにちわー」
サザエ「あら、中島君いらっしゃい」
中島「これ、いつものプリントと宿題です」
サザエ「ホントにいつもありがとうね・・・」
中島「いえいえ、クラスメイトですから」

カツオ「キョオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」

サザエ「あ、こら、カツオ!トイレはあっちでっていつも言ってるでしょ!」

中島「磯野・・・」

http://www.kajisoku.com/archives/eid379.html

この場合池沼という隠語は元来の用法、知障すなわち知的障害者の意味で使用されているわけです。スレッド自体は悪ふざけの類で立てられたものでしょうが、問題提起としてはとてもクリティカルなポイントを突いていると思います。磯野家には絶対にこういうことは起こってはならない。現実にはそれなりの確率で起こりうることなのに、磯野家でそれが起こるということは考えられないのです。

サザエさんが日本の家庭のイメージというわけではなくなってからずいぶん経つようですが、それでもやはり、そこには一種絶対の安心感があります。おそらく日本社会で“あるべき”と考えられている状況とは、今でも変わらずサザエさん的な家族、それぞれが属する社会集団も含めての人間関係なのです。そしてそこには、知的障害者は存在してはならない。


僕は障害者をサザエさんに登場させろ、言い換えるなら「もっと障害者の存在する現実を見つめろ」と言いたいわけではありません。むしろ軽々しく覗き込まない方が良いのではないかとさえ思います。現実にはあちらこちらに途方もない絶望が広がっていて、そして知的障害者の問題はその絶望のうちの代表的な一つのように感じられるからです。

僕の周辺にも知的障害者がいます。彼女、僕より四歳下の女の子は、重度の知的障害を持って生まれましたが、両親と、僕と同級生である兄の熱心な努力のおかげか、中学生になる頃には言葉がはっきりと話せないだけで、意思の疎通が十分に可能なレベルまで辿り着きました。卒業後の就職先も決まり、家族が喜んでいたのもつかの間、どういうわけか彼女の知的障害は再び悪化して行ったのです。

愛があれば乗り越えられる、という話はよく耳にします。でも、愛をもって必死に関わって、その結果が『アルジャーノンに花束を』だったとしたら、家族はどうしたら良いのでしょう。彼らは彼女のために、多くのものを犠牲にしました。こんな事は口が裂けてもいえませんが、彼女さえいなければできたことはたくさんあったのです。そして何よりも――彼女はこれからも生きていくのです。


僕は堕胎に反対です。宗教的な理由が一番ですが、もう一つの理由は知的障害者の存在を認め、保障を与えさえして存命を肯定するような社会で、どうして堕胎のみが認められるのか、筋が通っていないと思うからです。望まれない子供の“廃棄”である堕胎が認められるのであれば、出生時に両親合意による知的障害者の“廃棄”も認められるべきでしょう。

もちろんこれは皮肉です。そんなことはある“べき”ではない。ただし、家族内の重度の知的障害者というものはおそらく、それを持たない家族にとって想像を絶する負担(あえてこう言ってしまいます)であり、そしてそれはどの家族にとっても起こりうる現象であり、なによりも人間誰もが、自分以外の誰かを、自分の選択ではなしに負ぶさって生きていけるほど強いわけではないと信じてもいるのは確かです。

彼女の兄である僕の友人は、某国立大学を卒業しましたが、現在介護士として働いています。給料は驚くほど低く、仕事はけして楽なわけでも、名誉があるわけでもありません。彼は自分より長く生きるかもしれない妹の世話をしていく宿命を選ばずして課せられ、そして介護士の道を選びました。彼女の存在が彼の人生に大きく影響を与えたことを、誰も否定できないでしょう。

現実に知的障害者は存在します。そして知的障害者の存在は家族に凄まじい影響を与えます。誰の責任でもない、けれど苛烈な現実だけは存在する。それが余りに理不尽なので、日本の社会はそれをあえて見つめないことを選びました。僕はそれを責めようとは思いません。どうにもならないものを見つめて狂うよりは、見なくてすむ限り見ないという選択は、十分に合理的で、むしろ人間的でさえあるのではないでしょうか。

それでも、もし本当に問題を見つめなくてはいけなくなった時、自分はどうしたらよいのかという問いは、いつも立てておくべきではないかと思うのです。“本質的にどうにもならない”ことに直面したとき、自分はどう行動するのか。具体的な行動の選択肢は極めて少ない。では自分は一体全体何を価値として生き続けるのか。この漠然とした問いは、ここに辿り着きます。


「障害者とは、優しさとは何かを教えるために神さまに使わされた存在なのだ」と語る人がいます。僕はそれを否定しようとは思いません。けれどこの言葉は、あまりにも、あまりにも皮肉だと僕は感じるのです。僕らはたぶん、本当の優しさを持っていない。それを教えるために、神さまは世界にたくさんの悲劇、どうにもならない現実をばらまいた。僕らは確かに、優しさの対極だけは持っている…。

僕は、残酷な人間です。もし両親がそれを望むのであれば、知的障害を持った新生児を“処理”することは、許されてもよいのではないかとさえ思うくらいに。僕は、選ばずして課せられた運命から逃げようとする人を、「弱い」と非難できません。きっと僕も、逃げるからです。僕はそうやって、僕を見捨てる人がいても、責めようとは思いません。結局のところ、それぞれはそれぞれの喜びのために生きているのだと信じているからです。

けれど、やっぱり、そうでなければ良いなあ、とも思うのです。人はもっと優しくて、お互い助け合って生きている。世界に理不尽な悲劇なんてなくて、どれも深い意味を込め、誰かが緻密に配置した、最善の計画の上の必然である。だからどんなに辛くても、優しさを信じ、愛を信じて、人は確かに生きていけるのだ。いつか全ての意味がわかり、世界が果てしない幸せにたどり着くその日まで。

心からそんな風に思えれば、どんなに素晴らしいでしょう。けれど、僕にはそれはかなわない。だから実のところ、僕は磯野家に障害者が存在しないことに、ほっとしているのです。そんなサザエさんを通して僕は、日本社会表層を包むやわらかな欺瞞に埋没することができる。そこにはややこしすぎる問題は存在せず、話せば誰もが了解し、調和が、変わらない日常があるのだとする、心地よい盲目に。

サザエさんにはどことなく憂鬱が漂うとも、よく言われます。それはサザエさんが日曜夜に放映され、休日の終わりを暗示するからだという説明は、おそらく妥当なのでしょう。けれど僕は、もう一つ理由があるのではないかと思うのです。それはつまり、サザエさんが描き出す“あることになっている嘘”が、“ないことになっている本当”を、それとなくちらつかせるからではないだろうかと。


もしも磯野家に池沼がいたら。
その時僕らは、どのような世界に生きているのでしょう。