聖三位一体

三位一体の神秘。人間の知恵では悟り得なくても、
神の啓示されたものであるから信じる真理を
「信仰の奥義」といいます。

カトリック要理詳解』


 完全な存在である神が自身に対して持つイメージは、それが完全であるためにそれ自体また完全に存在する。言い換えるなら父なる神とは自身を知る神であり、子たる神は神が自身を顕すもの、いわば生きた神の言葉である。父なる神と子である神は互いの神性を熟知するが、そこに存在する限りない善と美は、神の意志の間に無限の愛を呼び起こす。父なる神と子たる神から永遠に生じる、この絶対的に完全で限りなく強い愛を、神の第三のペルソナ、聖霊と呼ぶ。


 父なる神が初めに存在しており、子たる神はその少し後に、聖霊である神は最後に生じたものであるが、神の想いと神の愛は神の本質であって、時間を超越する。つまり子たる神と聖霊である神は父なる神に従属しているわけではなく、聖三位はそれぞれが無限に完全であり、一つの神性のもとにある。すべては父なる神によって始まり、子たる神は我々に真理を教え、神と人間の間の断絶を修復するために地上を訪れた。そして絶対の愛である聖霊は、その無限の愛の業をもって霊魂を聖に帰す。そのいずれかが働くとき常に、他の二位もまた同時にそこにある。


 有限の存在である我々は、この信仰の神秘を完全に理解することはできない。しかし信仰の奥義は理性を越えたものであるとしても、理性に反するものではない。そして世界には我々に理解できないものごとが無限に存在し、我々はそれをただ素直に信じる。ましてや無限に優れた神の真理について我々に理解できないことがあるのは当然であり、それを理解できないのは真理の過ちのせいではなく、我々の理性の力が有限であることを証明しているにすぎない。我々は天国において初めて、絶対唯一である神とその真理から来る美に感嘆することになるだろう。


 という理屈。