沈黙

沈黙 (新潮文庫)

そんなことはないのだ、と首をふりました。
もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、
その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。
(しかし、万一……もちろん、万一の話だが)
胸の深い一部分で別の声がその時囁きました。
(万一神がいなかったならば…)

沈黙。日本が世界有数のキリスト教大迫害の歴史を持つ国であることを、どれ程の人が実感しているだろう? 1549年8月15日のフランシスコ・ザビエル(彼はカトリック世界において我々の想像を越えて名高い)来日以来、いったい何人の人々が信仰のために死んでいったか。ある面では全くの無意味である、名も無き彼らの死に対し、歴史は何も語らない。彼らを導こうと日本を訪れた、多くの聖職者たちの苦難と殉教の事実さえも、歴史の本流、江戸の繁栄の陰に空しく霞む。迫害、「神はいる」と信じた人にだけ、降り掛かる苦難。しかし、いるはずの神は、けして救ってはくれなかった。もちろん、神学的な理屈はわかる。しかし――。
ただ信じるのではなく、考えること。今日の我々に必要なものは、それではないか。考え抜いた先に、信じられるものがあれば、それはきっと何にもまして、真実なのだ。ロドリゴ神父として、カトリック教徒遠藤周作が、非常に危険なことを語っているのはわかる。それでも私は、彼の”最後の”言葉を認めたい。「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」。名も無き人々が、言葉もなく歴史のうねりの中に消え去ったとしても、彼らの信じたものがけして神学的な『神』ではなかったとしても、彼らが生きて、そして空しく死んでいったこと、まさにそのことこそが、彼らの信じた愛の存在について、語っている。

日本とマリア(ここに意味を見出すかどうかは、人それぞれでしょうが、一応リンク)
 http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/maria.htm

(8/50)