GUNSLINGER GIRL 長くなりすぎたTitoさんへのお返事

GUNSLINGER GIRL 3 (電撃コミックス)

大団円を許さない設定がこの作品を凡作として埋もれさせない一因であることを理解していながら、トリエラ×ヒルシャーの二人にはどうにかして幸せになってもらいたいと思わずにはいられません。


もし救われる可能性があるとしたら、トリエラとヒルシャー、彼らのみでしょうね。ジョゼはたぶんあらゆる意味で最悪の存在だし(「ジョゼさんは何でも知ってるんですね」「そうとも」)、可哀想なジャンは現実に耐えかねて、リコを道具にしてしまった。ラバロはもう死んだし、マルコーは微笑み方を忘れた。なのにヒルシャーだけが「僕はトリエラを裏切らないし、トリエラは僕を裏切らない」なんて(一見)呑気なことを言っている。*1

実際、トリエラとヒルシャーの間には、誰が見ても間違いなく、兄弟ではない関係が交じっていて、だからこそ彼らはしばしば工作に失敗してしまう。もちろん、言うまでもなくその”関係”とは”愛”でしかあり得ず、トリエラがいくら(おそらく存在しない)洗脳のせいにして否定しても、ヒルシャーが如何に鈍感でも、いつかは明らかに呈示されるはず。けれどその時こそ、破滅か希望かのどちらかの道へ、二人は進むことになるでしょう。

というのも、この作品を成り立たせているものは、まさに愛の否定そのものです。彼らはそれぞれの立場から、それぞれの理想を用意して、それらのために戦っている。けれど、その”理由”が一見いかに納得でき、素晴らしく見えるとも――例えばフランカ*2の「アマーティのバイオリン、PUPAの香水、正しい発音のイタリア語。あんな子の住むイタリアを私たちは守る」という発言*3 、あるいは「憎む理由はもう十分に」というヘンリエッタの呟きの様に――それらは大変空虚な想いで、だからこそ猛烈な違和感があり、余りに空しい。なぜならそこには、真実がない。

かつてラバロ大尉は、クラエスのために身を捧げ、そしてジャンに排除されました。その行為はクラエスへの彼の愛に他ならず、それ故に彼は抹殺されざるを得なかった。結果といえば、クラエスが実戦から退いただけ。けれど私たちは、そこに空しさを感じたりはしない。むしろ、生き残った兄弟たちにこそ、私たちは空しさを感じてしまう。だからこそ、あの世界から愛は排除されるべきなのです。なぜなら、それが明白になったとき、あの世界がはらむ全ての嘘と欺瞞は暴かれてしまう。かの作品がここまで徹底して意図的に愛を排除する理由は、それがあの世界を破綻させてしまうからに他ならない。

言い換えるなら、いつかフェッロが言っていた言葉、「だって相手もこっちを愛してくれるとは限らないもの」への”誰か”の返事――「こいつに真実の愛を教えてやってくれ」こそが、この物語のまさに根幹だと言えるでしょう。そう、あの世界に欠けているものは、”真実の愛”それだけです。どんな理由があれ、やってはならないことはある――たとえ、自分が死ぬとしても。けれどそのことを認めてしまっては、彼らはもう戦えない。そしてその愛が真実であるならば、真実とは終点であるがゆえに、それは”彼ら”の、”彼らの物語”の死を意味してしまう。だからこそ、彼らはけしてそれに気付くわけにはいかない。彼らは愛に目をつむって、真実に怯えながら、GunをSlingし続ける…。

第一話、満天の星空の元に描かれたワンシーン。「アルテミスは誤って最愛の恋人を自ら殺してしまう。悲しんだ彼女は恋人を星座にしてもらった」というジョゼの発言は、やはりヘンリエッタの真相、すなわち彼のけして償い切れぬ過ち、彼こそが引き起こしたこの物語の発端、”クローチェ事件”の全てを示唆しているのだと思います。それは彼の背負ったクローチェ(十字架)であり、彼がヘンリエッタに真実を伝え、神に許しを請うときのみ、初めて物語は結末を得ることができるはず。ただし、それは本当に、「悲しい話」となるでしょう。

願わくば、そんな悲しい物語の果てにも、希望がありますように。夜空に輝く明るい星が、彼らを導きますように。終わりまで結末は得られずとも、たとえ真実には届かずとも、そこへ向かう道の、まだ来ぬ終わりまで、優しく永く続くことを。愛を確信して目を閉じる、そんな美しい結末だけは、あの二人にはもたらされませんように。

どうか、王子と王女の結末が、「ずっと幸せにくらしました」でありますように。



*1:つまるところ「命をかけてでも君を守る」旨の発言で、これを愛の言葉と言わずしてなんと言おう?

*2:フランコ・フランカの関係こそ、愛の意図的否定、本作が山盛り抱える欺瞞の好例である

*3:乱暴に言うなら、いわゆる「正しいイタリア語」とは「フィレンツェ弁」の事であって、「イタリア語」などというものは存在しない。加えて、フランカが述べるような裕福な生活をおくるイタリア人は北部諸州住民のごく一部であって、少なくとも「典型的なイタリア人」であるとは言えない。