メルロ・ポンティ入門

メルロ=ポンティ入門 (ちくま新書)

 『わたしが真の意味で行為していないときには、それが本当にわたしのものであるか疑惑が湧いてきて、際限なく自問自答することになるだろう。それにたぐいする行為のすべてがまやかしのように、非現実的なものに見えてくるだろう。』

真理を志向する力は情念であって、理性のそれではないがゆえに、幸せな結果をもたらすとは限らない。どころか、時にそれは当為者のもつ世界の全てを破壊する。それでも人間は、真理を探してしまうのだ。目を持っている限り、人はいつか見てしまう。だからこそ、オイディプスは、ついに自らの目を自ら潰さざるを得なかった。もちろん、疑惑が強いほど、そしてそれを認めたくないと思うほど、自身の精神の平穏のために、人は自らを強力に偽る欺瞞を構築しうる。我々はまやかしと気晴らしの中で、疑惑を打ち消しながら生きることができる。
しかし、その欺瞞は常に暴かれることを待っているし、そうでいる限り、人は常に情念の衝動に脅かされ続けるだろう。だから我々はいつか、真の意味で行動しなければならない。真の意味で行動すること、それは『「わたしが考える」ということを受け入れること、そして「わたしが考える」ということと「わたしが存在する」ということが一致すること』である。注意したい、それはかつて語られた理性のことば「われ思う、ゆえにわれあり」ではない。理性も知性も情念も、私の中のすべての想いを含めて、ありのままに、「わたしは考える」。
考えるわたしと、わたしの行動と、それが与えることばによって、我々は日々の暗闇の中を、まったくの手探りで歩む。けれど、そんな世界にも、点々と輝く「意味」の煌めきがあって、我々を先へと導いてくれる。「行動」に由来して初めて生まれる出来事の「意味」、それらの連続である「歴史」の中にこそ、我々は「真実」を見ることができる。「歴史の真実」は可能であり、それはすなわち、「無限に存在する意味」なのである。

 『現実世界の驚異は、”意味”(の意味)がその存在と一つのものでしかないということである。…現実的なものは無限の探求に応じ、しかも汲み尽くすことができない』   ――メルロ・ポンティ


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