幸せになるために

ある個人が不意にネットから姿を消す場合、大きくわけて二通りの事態が考えられる。一つはネットどころじゃなくなった場合で、もう一つはパソコンにコーヒーを飲ませた場合である。「どちらもネットどころじゃなくなった場合ではないか」と言う突っ込みは正しい。正しいが、まあどうだって良い。つまり、彼らの身辺に何か重大な変化が起こったと考えるのが適切だと言いたいのだ。ところでネットに依存している人はもともとあまり幸せではない(むしろ、それ以上の不幸というのはなかなか考えにくい)ので、この彼/彼女の生活に起こった変化というのは一般に比較的幸せな方向へのベクトル変化の可能性が高い。毎晩チャットに現れていたA君を急に見なくなったと思っていたら街で女の子と手をつないで歩いていたりする。悔しくないぞ。またパソコンが壊れたと言っても悲観することはない。夜更かしの原因が目出度く取り除かれたわけだし、コーヒーの香り高いキーボードなんて結構おしゃれだ。ケーブルが減るから部屋もすっきりする。やることがなくなって勉強に励んだりする。本屋に立ち読みに行ったら可愛い店員さんがいて嬉しいし、ことによるとガンパレード状態だろう。もしネットにへばりついていたとしたら、このような建設的な生活はとても送れまい。ああ素晴らしきかなPCレス生活。そう、「ゲームを捨てよ、街へ出よ」なんてお節介きわまりない誘導も、あながち間違いではなかった。ただ惜しむらくは後者の主張において彼らは完全に間違っていたのだが。つまり健康な社会構成員は用事があるから街へ出るのであって、用もなく毎日毎日街へ出て行くのは脳味噌に花が咲いた人々だけだ。原因と結果を取り違えてはいけない。さて、しばらく日記を放置していたのは別に幸せになったわけでもパソコンに飲茶させたわけでもなく、ただ単に日記のネタが見つからなかったのでした。関西人はつらい。