クラナド

攻略サイトを参考にしまくって読み終えた。なるほど、中盤で感じたシナリオ間の統合性のなさには、きちんとした理由があったわけ。ひとたび絶望に飲み込まれた主人公はある種のループの中に取り込まれ、幾度も町の意志を代行することで彼が集めた多くの幸せの力が、最終的な奇跡へと物語を収束させる。『AIR』に比べて圧倒的に理解がし易く、『KANON』に比べれば断然洗練された構造を持っている。なにより読了後の後味が爽やかなのは非常に評価されるべき。
が。序盤から中盤以降までを占める例のループシナリオ、これら同士は一見して相互の関連性が判然としないので、ここを通り過ぎる過程が一番憂鬱なものではあった。予備知識を持って当たらない限り、よほど読みの鋭い読者でない限り、様々な過去作品の寄せ集めと受け止めかねない。願わくばまっさきに渚とのfateを描き、また幻想世界という種明かしの描写によって、ループの持つ意味を示唆して欲しかった。
さて結局のところ、この作品においてもまことのヒロインはただ一人。『Fate』もそうだったが、複数ヒロインを登場させるノベルゲーム形式というものは近頃「物語全体の統一性」と「複数のヒロイン存在」の間に発生する、致命的な矛盾に直面しているのではないか。つまり「誰も彼も」が認められず、また「全ての結果の同時性」が文章として論述できないにも関わらず、ノベルゲームというメディア自体はそれら表現を可能にしてきたために、いざ作品全体を総括し要約しようとした場合、多くのサブシナリオの存在性が消滅する。
かつてギャルゲの主流であった(今でも数の上では主流である)『ときメモ』的に個々のシナリオを完全に独立したパラレルワールドとして認識すべき作品たちは、それ故にそういった悩みを抱えずにすんだ。しかし全てのシナリオを読んでこそ物語の意味が把握できるような、進歩し複雑なノベルゲームにおいては、個々のシナリオを「パラレルワールド」として一言で片づけるということは難しい。
ゆえにそれらのシナリオは本筋のなかに、それぞれ並行的なストーリーとして(括弧)入りで挿入されるべき低次の存在とされ、結果複数ヒロイン制の意義を減少させてしまう。彼女らはあくまで本命の引き立て役でしかなく、プレイヤー側の選択権は、あるように見えて実はない。これがノベルゲームという表現形態の持つ優位性に与えるダメージはかなり深刻なのではないか。つまり、それは紙メディアに印刷された小説となんら変わらないのである。
ではどうすれば、このクリティカルな性格を打破することができるのか。複数の物語を同時に語ることができない以上、すべての関係を同列に表記するためには、一つの物語の中で全ての関連性を語りきるしかない。つまりストーリーは一つしか存在せず、すべてのヒロインは同時に主人公と結ばれる。もちろん現実の社会規範に則る限りこの状況は起こりえないので、この手段を利用する場合主人公の地位は王様に類するものでなければならない(好例は『うたわれるもの』)。…と言っても、やはりストーリーが一つしかない以上これは完全に小説であって、ノベルゲームである必要は一切ない。
ここで注目すべきなのはやはり、『月姫』の構造である。彼の傑作の美点の一つとして挙げられるのはそのほぼ完璧なまでの構造の合理的単純性だが、その真のすさまじさは「家から出て家に帰る」という古典的なテーマを重層的に構成する複数のシナリオを、すべてが完結した「先生との野原」という世界で覆うことによって、それぞれ独立させながら同時に統合するという荒技を見せている点である。つまり『月姫』は根本的に志貴自身の物語であるとはっきり描くことで、物語が内包するヒロイン達、そして彼女たちとの個々のエピソードの物語的序列を下層にシフトさせ、(二次的に)並列なものとしてそれらの表面的衝突を防ぐことを可能にしたのだ。
物語は内部での発展性を保持しながら、外側において完全に閉じている。「魔法使い」であるところの青崎青子と志貴が出会い、別れた草原はすなわち世界の外側であって、そこへ至った彼=読者はすべての事象を同時に認識し、受容することが可能となった。つまりこの構造上では、『月姫』におけるすべてのエピソードは並列であり、重層的であり、そして単一である。複数のヒロインを抱えるノベルゲームの弱点を見事に解消した、奈須きのこ氏によるこの画期的なノベルゲーム的著述の文法は、このクラナドという作品においても大いに参考とされるべきだったのではないか。


言いたいことはつまり、杏はすごくいじましくて健気で可愛いんだからあの子にも可能性くらい上げてよね。