ぐたぐたなKANONの話

AIRのことを考えていたら何となくKANONへ。あれはあれで構成がかなりぐだぐだで、でも、ちらほら見える感動のかけらみたいなのを頑張って追いかけてみたら最後の最後に――挙げ句の果てに何もかも台無しの結末がやってくるという、まったくもって酷いお話でしたが、なぜかAIRより素直に「面白かった」と言えるのが不思議です。というか実際、彼女のルートの最終局面まで、正直半泣きだったんですけどね僕は。だからこそ、おいおいだめじゃん! だよもんじゃねえ! みたいな感じで大いに憤慨したのを覚えています。先のアニメ版もきっちりだよもんを踏襲してだよもんな結末を迎えていたようですが、今度ばかりはちょっと違うぞ。誰あろう、京都アニメーションのお仕事である。必ず名作になるという根拠はないが――素晴らしい結末に辿り着いてくれることを、僕はさっぱり疑いませんね。ああ秋が楽しみ。

 AIR

Erogamescape nekocatさんのコメントを見て。あの夏から6年目に思うこと。

重い「家族」というテーマだったのに係わらず、「萌」という相対する記号で書いてしまったことが今作の最大の欠点ではないだろうか?

こういうレスは無粋な上に根拠に欠けるかもしれませんが、本作に対する巷の評価は「泣ける」というよりむしろ「とにかく退屈だけどなんかすごい」というものだと思います。そして、なんかすごい、それは目立つところでは本作を代表するいくらかの音楽(鳥の詩しかり、夏影しかり)の魅力であり、実際そのような評価もしばしばなされます。

ただし、僕は、この作品の本質というのは、あのどうしようも無さなんじゃないかなあと思うのです。かみ合わない会話、わけのわからないキャラクター、そして理不尽極まりないストーリー。そんな全ての欠点。KEYがそれを狙ってやったかどうかはわかりませんし、多分偶然そうなっちゃったんだと思いますが、何というか、ここまでどうしようもないお話も珍しい。あらゆる意味で。

KEYというメーカーは、いつだって雰囲気で押し流すメーカーで、彼らの作品はだいたいのところ良く良く考えてみればぐだぐだ、というお話ばっかりなのですが、本作はその中でも、良く良くも何も本体自信が全くどうにも考えようのないお話(いくら考えてもどうにもならない)だっただけに、むしろ雰囲気だけが突出したというか、雰囲気しかないというか、変な特性を帯びてしまった。

舞台は暑い田舎の夏休みで、思考停止するにはぴったり。絶え間なく聞こえる無駄にリアルなセミの音と、まったくどうでもいい家族ごっこのつまらなさが思考停止に拍車をかけ、ほとんど病気レベルの登場人物たちは全くお互いの話を聞かないし、何をしているのかもわからない。なんだこれは。もしや最後まで読み進めれば良いのかと思いきや、なんと最後までわけがわからない。

こう、何というか、まさに、「今年こそ楽しいかなってちょっと期待してたんだけどやっぱり何もなく夏休みが終わっちゃった」ような寂寥感がびしばし漂うわけですね。そして冒頭に述べた通り、本作の本質はまさにこのどうしようもない感慨そのものではないのか、と僕は思うのです。「やっぱり駄目だった」の完璧な結晶というか、さっぱり駄目なんだけれどある意味ですごい。

そんなわけで、本作を冷静に眺めてみると駄目な要素ばっかりだ、というnekocatさんのコメントは全くのところ的を得ていると思います。ただ、本作を評価する人の多くが、その冷静さが指摘するダメダメさを越えた、何というかその、どうしようも無い夏休みの思い出(の雰囲気)、みたいなものそのものに、えらく参っちゃった、みたいなところはあるのではないかとも思うのです。

ちなみに、本作を萌え記号で出来ている、という指摘は間違いだとは言い切れませんが、実際彼女らに萌えた読者がどれほどいたかについては大いに疑問です。むしろ、昨年京都アニメーションの手によってアニメ化された際、「ああ、観鈴って可愛かったんだ」みたいな声があちらこちらから聞こえていたことは、彼女らが萌えキャラとしては難点を持ちすぎていた事実を示しているように感じます。

なお個人的にはあの作品は、BGM夏影が本体で、あとはおまけではないかと考えております。

 FATE

ついでにFATE/staynaightについて。

正義の味方の定義ってなんでしょうか? 恵まれない人を救う事ですか?それとも悪を倒す事ですか?

散々繰り返された話題ですけれど、前二章のアンチテーゼとして桜シナリオを用意したのであれば、奈須さんは責任を持って二者(セイバ+凛vs桜)を昇華しなくちゃいけなかったと思うのです。人間は人間である以上、完全な正義(でもなんでも良いですが、なんか理想)を得ることはできない、けれど人間である以上、それを心から求めて止まない。一体全体どうしたら良いんだ? なんて壮大な問いをわざわざ立てた以上、「んー、まあ、身近な幸せって大事だよね、不都合もあるけど、そこはまあ」みたいな結論ではどうにもならない。竜頭蛇尾も良いところ。

むしろそれなら、「じゃあ人間みなごろしにあった方が少なくとも悪を認識する人間意識は消滅するよねー」みたいな結末の方がすっきりする。実際、桜ルートって途中までその方向に進んでたわけでしょう。原理主義的に考えるならマキリ爺さんみたいなことになるし、桜のもたらすはずだった結末は理に適っていた。ただ最後まで残った彼女だけは不幸ですが、なんか意識が乗っ取られるとかそんな雰囲気だったから彼女の意識もじきに消えて問題ない。ただこれではあんまり報われない(というか元も子もない)から、思考停止させて無理やりハッピーエンドっぽくした。

こんなこといっていますが、僕は桜シナリオ好きですね。あれこそエロゲーのシナリオでしょう。十分にどろどろしてて、それでいて思索に刺激的。触手に近親相姦に寝取られに、なんてことしてるかと思えば、世界を救おうなんて言う考え方を違和感レベルから完全な破綻まで語って行く。実に良くできていると思います。ただし、主題に完全なアンチテーゼをぶつけただけでは、最初の状態と変わんないわけです。やっぱり、どうにもならんなあ、という全く一緒の感慨がでてくるだけで。時間の無駄そのもの。Aの考えにBの考えをぶつけて矛盾を生じさせたら、その先を語らないといけない。

そんなわけで、その矛盾を解決するものとしてあったはずだった(と、まだ奈須さんの誠実さと実力を信じている読者たちは願っている)のがいわゆるイリヤルートで、彼女はその本質である「聖杯」の能力を遺憾なく発揮して、文字通り「奇跡」を巻き起こしてくれるはずだったわけです。というのも、この問題は人の力ではどうにもならん問題ですから、これを解決することはまさに神の力を持ってするほかない。言い換えるなら「人間は存在して良いんだ」という証しであり、「全ての悪には意味がある」という証明。それは文字通り絶対的な救済です。なんて大変な騒ぎ。

結果から言えば、奈須さんはその答えを導くことができなかった。自らが提示した矛盾した二つの考えを止揚することができなかった。だから、イリヤという聖杯はその本当の力を最後まで発揮することはなかったし、あるはずだった彼女のルートはまぼろしと消えた。これは残念なことですが、仕方がないことだとも思います。簡単に答えが出せるものなら、今頃人間はもっと幸せな世界に生きているでしょう。ただ、ともかく答えは最後まで出なかった。そして、後味の悪さは最後まで残った。桜シナリオが責められるとしたら、この点に尽きます。

結局のところ、人間が人間を救おうなんて考え方がそもそも間違ってるわけですね。まず自分の尻を拭きなさい。どうせ死ぬまで拭き続けるはめになるんだから。一番救われないといけないのは、世界を救おうなんて強迫観念に取り付かれた、可哀想な士郎本人だったわけです。