現代ロマンチシズムの少女

海がきこえる (徳間文庫)

海がきこえる (徳間文庫)

海がきこえる』の後書きを読む。宮台もたまには良いことを書く。少女漫画の展開した複雑な人間関係に基づく物語が完全情報時代において男子と女子の間に現実認識と行動様式の格差を生んだ、みたいなことが書いてある。

実際少女漫画の主人公が身近なテーマで悩むのは現実に比較的近く有意義なように見える。もちろん人間関係が複雑、という基準であれば少年漫画でも例がないわけではないけれど、しばしば世界の先行き、みたいなあまり現実味のないレベルで悩むのであまり実地には役に立ちそうにない、どころかヒーロー主義的な誇大妄想を後押しするかのようだ。

その結果、少年たちが少女たちにおいて行かれた、とする彼の分析も、それはそれでそういう見方であるのはわかるし、現実と相対するものが誇大妄想的ロマンチシズムだとしたら、確かにかつての少女と少年の立場は逆転しているのかもしれない。世慣れ対世間知らず、の側面においては。

でも女の子たちがロマンチストだった時代というのは本当にあったのかなあとも思う。かつて身近な関係性の中でロマンチストであったかもしれないけれど、彼女らが現代少年のような妄想を持っていたのかについては疑念を持たざるを得ない。つまり、今も昔も変わらず彼女らは現実的な生物のような気がする。行動様式の変化こそあれ。

むしろ近頃の少年たちは象牙の塔にこもってそれぞれせっせと世界の危機に備えていて、反面、ある意味で取り残された少女たちは年上の男性に流れざるを得ず、彼女らは生き残るため否応なく現実スキルを上げた。とも言えはしないか。

その意味では宮台の解説は全く的外れで、これは単純に「わがままで小ずるい美少女とそれに振り回される年齢相応の何も考えてない少年」のお話というだけのような気もする。そこにロマンチシズムとかを持ち出すのはどうも眉唾くさいのである。

むしろ、宮台の言うような「人間関係に長けた美少女」というものこそが、少年の誇大妄想が生み出した現代ロマンチシズムの精華ではないのか。物事の裏表を自在に操り男を幻惑する、けれど根のところでは潔癖で生きるのに不器用な少女。それはそれで「そんな少女の存在する世界」という誇大妄想の核なんじゃないか。

おいて行かれた感に押しつぶされて理解できない相手を神格化するのも、これまた男の子の得意なロマンチシズムで、この宮台のくされロマンチストめ。とか思いながらも僕はこのロマンチシズムは好きである。何もかもわかっている優しい女性にすがるというのはマンマ主義であり、結局のところ、現代日本における、ある種のマリア信仰なんだろう。