おたくってどんだけえらいねんと思います。

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♪ / ・  つ))   むむもむ 
 ( ・ ノ   \  
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   (‘ω‘ * )つ))  ちんぽっぽ!     
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どこかの魔王さまは常々「ある作品が自分にとってつまらなかったとしたら、それは自分の読み方が悪かったからだ」と仰っていますが、これは「出来る限り面白いものであるはずだと信じるべきだ」という彼のポリシーに基づく一種のスローガンではないかと僕は見ました。*1
なにせ作者が何を考えて何を主張したかは絶対に分からないわけですから、真摯に作品を受けとめる公平な読者の姿勢においては、作者の努力の結果は想像できる限り無限に好意的に評価されるべきでしょう。いや、実際は、どう考えてもそんなこと無理に見える場合は実に多い。こいつ何にも考えてないだろ、ただの馬鹿なんじゃないかと思うことは確かにある。あまり現実的ではない。
けれど、それでも否定的に断定してしまうことは、傲慢の側面をかなり強く持つことは理解しておかなければいけない。もしそれに全く気付いていないとしたら、それは実にまぬけな傲慢そのものです。なにせ、分からないものを分かったつもりになっているわけですから。
結局のところ、会話において誰かの意見を聞くときも全く同じです。相手が真に何を考えているのかは絶対に分からないので、僕らはひたすら相手の声を聞くしかない。
けれどそれもまた必要条件に過ぎず、結局のところ「相手のセリフの内容は何かを真摯に自分につたえようとしているのだと信じて」積極的に好意的に取っていくことなしに、会話なんて成り立つわけがありません。
逆に、だからこそ語り手は、聞き手のそんな「信頼」に対し、最大限に誠意を持って内容を伝えようと努力する義務がある。それを欠く語り手は信頼に値しないだけでなく、一般的な聞き手語り手の信頼関係さえ破壊する、最悪の行為者です。
人間はテレパシーもバベル以前のことばも持っていない。そんな便利なツールはどこにもない。できることはただ一つ、せいぜい相手の話を聞いてみることくらい。そして、たぶんそれは一番難しい。聞く方にとっても、語る方にとっても。
それでも他に手はない。そこに必要とされるのは、言ってしまえば「謙虚さ」に他ならないと、昨晩確信しました。
せいぜい自重しましょう。

*1:コメント欄にご本人による訂正と説明が入っています。