奇跡と世界と――ひぐらし、S=Rから

 端的に言ってしまえば、「願いは叶う」という主張を巡って『ひぐらしのなく頃に』と『シンフォニック=レイン』は対称的な位置にある。前者があくまで純粋な叶う派であるのに対し、後者は悪質といってもよい偽装をもってそれを否定する。なにせ叶ったと見えたのは奇跡ではなく、むしろ妄執なのである。しかも繰り返しになるが、一見願いが叶っているのだ。これは怖い。

 誰にだって譲れない線がある。物語に絡めて明確にそれを語るのは北村薫『六の宮の姫君』。『往生絵巻』において信念の人に正しい報いを主張した芥川に対し、『首縊り上人』で菊池は死の間際まで逃げ惑う寝穢い人間に極楽を与えるのである。興味深いのはどちらも事が起こるのは死後に限られていること、彼らの主張は正反対に見えて、どちらも死にゆく人の顛末という点で共通する。

 歴史において芥川は自ら命を絶ち、菊池は同業に陰口を叩かれながらも大衆化路線で生き延びる。芥川は自らの死を肯定するために、菊池は自らの生を肯定するために、物語を通して相手の姿勢を反駁した。死に対する姿勢は結局のところ、生に対する姿勢の反映に他ならない。それはあるいは、それぞれの生に対する意味付けの問題でもある。

 誰しも運命を抱えて生まれてくる。運命とは向かう先にあるとは限らない。絶対に変えられぬという意味で、既に過ぎ去った過去もまた、あるいはより深い意味で運命である。生きている限り絶対に逃れ得ない宿命に対し、いかなる意味付けを試みるか。結局のところ、これこそが芥川と菊池の諍いの軸であり、奇跡を巡る確執の正体ではないかと僕は思う。

 奇跡を待ちわびる人々。絶対に起こりえないとされる変化をそれでも希求して止まない心は、深く現実への絶望に起因する。そこから見出されるあらゆる意味の総合は、天秤の上において破棄されるべき方向へ傾いているのだ。僕はこれをとても悲しいことだと思う。なぜなら、奇跡の成就に従い、破棄された全ての世界は、極論すれば不運な失敗に過ぎないのだから。

 世界に奇跡はない。少なくとも一連のADV、そして『ひぐらし』に願われているような、世界を平行に旅するような奇跡はあるとは思えない。だから最悪に見えるその世界でも、実は最高の温もりを秘めていると信じたいのだ。さもなければ、今ここに僕が生きている、僕の生きられるたった一つの世界が、“不運な失敗”でないことを、誰が証明してくれるのか。

 奇跡とは、世界の否定である。神に類する理不尽な力をもって、不都合な世界を破壊する行為。志貴、『月姫』の主人公があらゆるものを破壊する能力を持つが故に、平行世界を旅する魔法使いである青崎青子にして同類と呼ばせていたことは記憶に鮮烈だ。世界に居ながらにして不都合な可能性、世界を消し去ることは、確かに“魔法”の域にあるだろう。つまり、我ら人間の業ではない。
(むろん『月姫』はファンタジーであるから、それでも良かった)

 世界を肯定する姿勢は、世界に無限に意味が存在すること自体をもって奇跡とする。あるいはそれら意味を人間が運良く拾い上げられ、また繋ぎ合わせられることをもって。ある隠された一つの意味が、思いもかけぬ色調の変化を世界に与えることは確かに起こりうる。世界は否定されたのではなく、改変されたのでもなく、ただその色を変えただけなのに、以前とは全く異なる気配に包まれることになる。

 無限の意味の隠された世界で、例えば僕が拾い上げたちょっとした、これっぽっちの意味が、僕にこれほどの感動を与えてくれるのであれば、それら全ての意味を拾い上げた時、そこにある喜びはいかなるものだろう。意味の一つ一つが世界に眩しい彩りを与えていくのだとすれば、その果ては見つめられない光に違いない。古来人間はその光を、あらゆる意味の喜びを照らす奇跡を求めて、知の旅を続けて来た。

 平行世界ADVの多く、そしてその正当な末裔である『ひぐらしのなく頃に』が生の賛歌の中に幕を閉じ、『シンフォニック=レイン』がレクイエムの中にその終わりを見る対称は、本当に面白く、そして皮肉だ。世界を否定した先にあるのが永遠の生への喜びであり、肯定した先にあるのは死して神に抱かれる安息なのである。そしてこれは結局のところ、たぶん、互いの譲れない線なのに違いない。

 人は人として神になれるのか、あるいは人は人でしかあり得ないのか。芥川と菊池を死の別離まで隔絶させた、悲しいほどに鋭利な一線。僕は後者を採る。僕は神がいるのかどうか知らない。ただし神がいようといまいと、人はいつか必ず死ぬ。たどり着けないかもしれない奇跡だとしても、僕はこの薄暗い世界がわりと好きなのである。そして僕は、超人にはなれそうにない。