千と千尋の神隠し ―― 好き嫌いではなく

を今更見る。いろいろ言われていたけれど素直に楽しめた。ただやっぱり、日本には八百万の神さまはいても愛担当の神さまだけはおらへんのですなあ。 釜じいのセリフ(「愛だよ愛」)が冗談だとしても浮きまくっているのは笑えないぞ。
「好き嫌い」では済まない問題に直面しても、とりあえず微笑むしかないというか、そもそもそれが好き嫌いで済む問題なのかどうかさえ考える必要のなかった国。日本は間違いなくとても恵まれていて、それこそ神々の祝福に満ちあふれていたのでしょう。だとしても。
キリスト教の教えの一つに「汝の敵を愛せ」というものがあるのは有名。けれど「ただ、必ずしも好きになる必要はない」という解釈がなされているのを知る人は少ない。もちろん、好きでない人を愛することはかえって難しいので、信徒はますます神を頼りとするわけなのだけれど。
まったくのところ、好き嫌いで全ての問題が決着するほど楽なことはない。子供の世界はそれでよかった。喧嘩しても大人が止めてくれるし、じきにみな忘れる。ただ、大人になって、それ以上大人がいなくなった時、好き嫌いだけではどうにもならないことは確かにある。その先が欲しい。
だからこそ、愛なる概念と数千年間真剣に向かい合っている思想体系を、今の日本人はもう少し真面目に覗き込んでみる価値がある、むしろその必要があるのではないでしょうか。好きにならなくても良い、ただし汝の敵を愛せ。これはとても刺激的で、興味深い考え方に思えます。

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しかしらなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 I Cor 13:11-13