晴れた日、アルターレにて

日本全般に何が欠けているかと言ってそれはコンテクストだ、と大いばりで彼は言った。皆、楽しいと思っている自分を楽しいと思っている自分を楽しいと思っている自分に満足しているのであって実のところ楽しいとは何かを知らない。結果としての認識の偽装構造自体は無駄に高度ではあるけれど根本的に重要なものが欠け落ちているからいつも空しくて延々と新しい何かを消費し続けるはめになる。そこに欠けているもの、それがつまりコンテクストだ。というようなことを一息で語り終えて彼は軽くワインをあおった。グラスの内側を赤い液体の幕がゆっくりと降りて行く。その行為そのものをより大きな意味の中で見た場合にその行為がもたらす意味を考える。いいかい、このリストランテの二階はホテルになっている。一つ星だから安い。僕たちは今ここで食事をしている。時間はお昼を少しまわったところで、外は爽やかな春の陽気だ。最初のパスタはともかくあのリグリア風チーズのリゾットは大変重かったし、タイミングをずらしてしまったこの赤ワインはそろそろがつんと効いてきてじき僕はあのポンコツフィアット500のドアを開けるのもおっくうになるだろう。そこでこう考える。いっそ今日はここにこのまま宿を取って、ジェノバまで出るのは明日にしたらどうだろう。この店の雰囲気はゆっくりするのに向いているし(ほらあの給仕なんてミラノじゃ1分で首だね)日の光は気持ちいい。グラス一杯ずつであと二時間は過ごせるよ。その後は街をゆっくり歩いてみる。昔はガラスで栄えた街だったんだ、今はすっかり寂れて何もないけれど、歴史自体はムラーノ島よりも古い。場所が悪かったとしか言いようがないね。夜はかわって魚料理を食べてみよう。ここいらはさっきの野菜のフライやおなじみ猪肉なんて定番の内陸メニューも美味しいけれど、ティレニア海から運ばれた新鮮なお魚もいけるんだ。古代は塩の道って呼ばれていた街道の上だからね。そうそう、このあたりの特産は紫アスパラって変わり種なんだけれど、大学で色々調べてみたらどうやらかなりの古代種らしい。こいつが塩の道を辿ってあちこちに散らばったんだって主張してる先生がいるよ。アスパラの発祥の地だって言いたいわけだ。うん、これも良いな。今夜の献立候補が増えた。ほらね、ちょっとした午後の選択について追いかけていくだけで、この国での日々はこんなに素晴らしい時間と経験を与えてくれる。こんなことは日本じゃなかなかできないよ。どこに行ったって同じだし、何より食べ物が不味い。で、どうする。ジェノバに行く? そう、もともと花市でレモンの苗を買うために出発したんだからそれが良いかもしれないな。前から探している仏の掌っていう変なシトラスが、名前通り指みたいな小房に別れてる柑橘なんだけれど、ちょうどピストイアから来てる植木屋のブースにあるらしい。色々ややこしく別れているように思えて、どんなに必死に選んだとしても、端から見ればお釈迦様の掌の上ってわけだ。実に酸っぱい話じゃないか。首尾良く買えたら窓辺において、ニヤニヤ眺めよう。何のために? 良い質問だ。結局のところ、人生を楽しめってことだね。