おたく神学への道

何というか、おたく文化は十分な地点まで来たのではないかと思うのです。何のためにかと言えばつまり、それ自体が持つ、というよりむしろそれに我々が与えうる意味というものの価値をわざわざ考えるためにであって、それは結局のところおたく文化に対する存在論的アプローチということになるのかもしれません。もちろん私はこの世界の誕生に立ち会ったというわけでもなければ、今その本流にいるというわけでもありません。が、それでもおそらく”十分に”この世界に関与しているし、少なくともこの世界の住人ではあるような気がします。


「おたく」という言葉の意味、あるいはまた「萌え」という言葉の定義ecc.。ここに書くまでもなく、それらが現在に至っても答えを持たない重要な論点であることは明かでしょう。ネットの内外で展開されるこの手の論争は留まるところを知らず、実際のところ本にさえなってしまいました。しかし本当の問題は、どうしてそんなことが問題であり、つまるところ「そんなつまらんこと」が論点になってしまうのか、という問題に他なりません。言い換えるなら、「それはいったい何なのか」という疑問に対する回答の渇望が、間違いなく強く存在する。それが私が冒頭に言ったところの”十分な深み”の、ある側面での意味です。


今更ながら、私のここで述べるところの「おたく」について。それは、私の実感として把握する限りのおたく性に限定されます。具体的に言うならば私は、鉄道おたくや写真おたく、といったものについて語っているのではなく(それらはむしろ愛好家とでも呼ばれるべきでしょう)、アニメや漫画といったメディアに熱中する、いわゆる一般の「おたく」について語っています。この定義自体問題があるかもしれないと思わなくもありませんが、とりあえず今は、問題を拡散させないように、それの検証は後回しにしたいところ。とりあえず「日本語及び絵で構成される物語を愛好する集団」と定義しておきましょう。


ちなみに、なぜ”文字”ではなく”日本語”なのか。端的に述べるなら、日本語の使用する文字は、少なくともアルファベットではない、ということに他なりません。それ以上はまだ整理できてませんが、もし(墓穴を覚悟して)もう少し主張を前に進めるならば、日本語が象形文字から発生しているのだとすると、日本語によって表記される漫画は、実際のところ全部まとめて絵のようなものであり、また同時に文字のようなものであるのではないか、ということなのです。”記号化”という仕組みも、このあたりからアプローチしてみたいなあと思いつつ、これはあまりにも専門外。


ともあれこれは、おたく世界に住む一人の人間として、その視点でその世界を把握してみようという試みにすぎません。それぞれの人がそれぞれの認識を持つように、私の視点も私の視点から世界を見ます。結局のところ、私はおたくについて語りながら、私の世界について語るのでしょう。うまく行けば面白いかもしれませんし、うまく行かなければ、つまらないでしょう。幸いここは日記サイトなので、一気に何もかもを書いてしまう必要がないということに最近気付いた(というより某氏のサイトがうまいことをやってるなあと思って見ていた)ため、そんな具合に進めて行きたいな、と、壮大な言い訳をしながら。


まとめ。この主張は、うまく行けば『「おたく」とは何なのか。そしてそれはそのまま「おたくという存在は、どのような意味を――文化的にも、その文脈上での歴史的にも――持っているのか」』という問題を、神学的な視点(すなわち超ドグマティックな屁理屈)というアプローチから扱います。「おたくの神学」とでも呼んでみましょう。うまく行かなくても、ネットにゴミデータを増やし、来るべきおもしろSF未来のため、つまり『人形遣い』の登場に一役買うことができるでしょう。どちらに転んでも私は幸せですが、できるならばなにがしかの結果は出してみたいものですね。その方が嬉しい。