その後

シンフォニック=レイン』のおかげで、ゲームレビューが書けなくなってしまった。たとえ、どんなにその内容が薄いと思ったとしても、それは単に、私がそのシナリオが本当に意味している内容を読み取れていないだけ、という可能性を排除できなくなってしまったのだ――あの作品のおかげで。実際、小学生が、例えば一般相対性理論を「最高に下らない」と言ったとして、それを真に受ける人は、あまりいない。普通の常識を持った人なら、「それはきっと、君が、きちんと理解できていないからだよ」と思うだろう。つまり、私の言いたいことは、そういうことに近い。
私は作者ではないし、作者が何を意図して書いたのかは、絶対に知ることはない。たとえ作者と直接話をする機会があったとしても、そこで聞くことができるのは、「その頃、私はこう思って書いていたはずなんだ」と思っている、今の作者の意図でしかない。つまり、文章は、それが書かれた瞬間、もう、本当は何を言っているのか、神さま以外にはわからなくなる――とまでは行かなくとも、少なくとも作者の意図がきちんと読み取れたかどうか、私には保証できない。そう、「私が本当にわかっているのかどうか」は、私にはわからない。だから、その内容に、言及できない。恐れ多すぎて。

一方、例の小学生が「最高につまらない」と言っていたとしたら、比較的多くの人がそれに同意しただろう。「いわゆる常識として価値があるらしいこと」を認めながら、「個人的にはあまり好きではない(理由は色々ある――この場合は主に一つだろうけれど)」、と発言することは、多くの人の賛成を得られる。その理由は、この発言が単純な好き嫌いに基づいて行われている点にある。好き嫌いというのは、間違いなく自分自身の中の問題で、だからこそ比較的真実に近い。ただし、発言者は、自身気付かぬうちに、自分すら偽っている場合がある、というのが、最悪に厄介な点なのだ。

以前、私は『あしたの雪之丞2』を遊び、何だか最悪に憤慨したことがある。こんなのは雪之丞じゃない、このゲームはとにかくダメだ。そう言おうとした時、ふと「本当にこの物語はつまらなかっただろうか?」という疑問が頭を過ぎった。…いや、そんなことはない。とても面白かった。ではいったい、私は何が気に入らなかったのだろう。その答えは単純に、私はせりかより晶子が好きだからです、ということを認めることができたのは、私がその可能性(あまりにもつまらなく、自分でも気付きたくなかった、理由にもなっていない理由)に気付いてから、少々時間が経ってからだった。

大事なのは、その文章の内容がわからなくても、そして時に、その気持ちの原因を特定しないままでさえ、好きか嫌いかは言える、という点。私はなんとなく、こう思っています。私はこの理由で、こう思っています。すべてのレビューは、ある意味「好き嫌い」に等しい。だって、あらゆる”理由-根拠”を突き詰めていくと、その原点には、必ず著者の主観的判断が存在してしまうから。”私はこう思いました、私はこうであるはずだと信じています…”の壮大な集積。そのようにして組み立てられたレビューに、果たして、何らかの意味があるのだろうか?

もちろん、きっとある。あるはずだと思う(さもなければ、私は何のために、あの作品のレビューを書いたのだろう?)。けれど今の私には、まだわからない。そもそも、何に悩んでいるのかもわからない。結局、根底にあるのは、ひたすらな違和感でしかないらしい。けれど、むしろそんな違和感の奥にこそ、本当の意味が存在するということ、それが『シンフォニック=レイン』の教えてくれた重要な真実(だと、私は思う)。そう、本当はわかってないのに、わかった振りをしない。 のはやっぱり無理だから、わかった振りをしながら、時々ちょっと振り返る。そんな感じで、やりくりして行かなくては。 ――ほら今、私は、何かわかったような振りをした。

とりあえず、今度『ぴヨナ=ピコナ』の感想文でも書こうかしら。