月森さんぽ様へ

id:tsukimori:20050304#p1 森の十字路伝説 
トラックバックを頂き、ありがとうございます。お礼が遅れてしまい、申し訳ありません。
ご存じかもしれませんが、しばらくイタリアへ旅行に行っていたのでした。研究にかこつけて、シンフォニック=レインの聖地巡りに行ったというのが本当のところです。訪れたのはイタリア中北部、ミラノ・ボローニャ・フィレンツェといった辺り。そこには一般的なイタリアのイメージと異なり、曇りがちの空と薄汚れた町並みが広がります。特に娯楽もなく、美食もなく、観光地もなく、地味だけれど、それなりに皆、毎日を生きている地方。一言で、良かったです。

私はシンフォニック=レインという物語を、ゴシック式の大聖堂のようだと感じました。外から見ればこの上なく地味でありながら、その内部は言葉にならない圧倒的な荘厳さに溢れています。眩しい日の光を遮った内陣は静謐さに満ち、側廊のステンドグラスを通して差し込むおぼろな光が、壁面に描かれた聖人たちの物語を浮かび上がらせる。外陣正面、そこにキリストの像はあっても、彼はけして何も答えてくれません。でもその傍らには必ずマリアがいて、我が子の、人の子の宿命のために、涙を流し続けている。振り仰げば頭上には天蓋、それは永遠の真理を表す虚空、星空の世界です。…しかし、それら全ては、その意味を読み解き、受け入れない限り、古ぼけて薄暗い退屈な空間でしかありえません。

あまり詳しくありませんが、言語論というか、記号論というか、言葉、そして世界というものの持つ意味は、ソシュール以来、悲しいほど頼りないものであるとされてしまいました。私たちは世界を定義する際、言葉を用いる以外に術を持ちませんが、その言葉とはまさに偶然の産物で、それが指し示す対象とはなんら絶対的な意味関連を持たない。例えば「犬」とは、inuと発音される、ワンと鳴いてだいたい尻尾のある四つ足の動物のイメージに”偶然”付けられた「記号」以上のものではない。我々の認識しうる世界は全て我々の言葉で出来ていて、でもその言葉は、途方に暮れるくらいどうしようもなく、あやふや。

この悲しいまでに緻密な、しかし果てなく無へ向かう世界と、それを包み込む慈愛。人間という存在の合理的意味と根拠を求め続け、ついに果たせなかったカトリック的西洋思想は、今やマリアという「泣き続ける存在」によって救われているのかもしれません。ドロレス、悲しみという別名を持つ聖母とは、我が子の死を、この理不尽な世界に生きる人の子の宿命を憐れみ続けるイメージの具現です。父なる神は留守なのか、少なくとも私たちを構ってくれませんし、当面は祈りにも答えてくれないようです。なら、まだ憐れんで泣いてくれる女性の方に愛着が湧くのも、当然のことでしょうね。

と、話がずれすぎました。今になって思うのは、シンフォニック=レイン、あれはなにか…まさに「この世界」なのではないか、ということです。それは読者によって、読者の数だけ無限の意味を与えられる作品。そこには全てがあるのに、ただ一つ、神さまだけがいない。奇跡は起こらなかったし、登場人物たちは最後まで、余りに生々しい傷を持ち続ける。でも、それでも私はあの物語に、何かとても荘厳なものを感じざるをえませんし、それを言い表すために最も適切な言葉を、あるいは最も言い表したくない存在を、私たちは間違いなく、そこに見ていると思うのです。


「涙がほおを流れても PianoVer.」 を聞きながら。

はじめてのC