真・フォーニエンド












何かが、おかしい
それは、あまりにも、どこか、不自然だ







■そもそもの違和感
・al fino(トルタ視点)でも表示されるpiovaメーター
・アルはやせ細ったと言われていたが、実際は少しも痩せていなかった。
・「アルはフォーニで、フォーニはアルだった」?
(それなら、どうしてフォーニとアルが一緒の場所に寝ているのだ?)
・「ごめんなさい、私は”いつも”、あなたを別の方へ導こうとして」
どうしてアリエッタがそんなことを(読者しか知り得ないことを)知っているのだ?
・フォーニであったときのくせなのか、アルはあれからちょっとだけ口うるさくなった。
・「君のために作った曲なのに、どうしてこう、音程があわないのかな?」
・フォーニが乗り移ったのに、アルが歌えないはずがない
(素晴らしい歌声で歌うはず!)
・フォーニエンドだけ、アルが死なない
・フォーニエンドにおいても、夜空に光が煌めく

・真トルタエンドでだけ、「ゲームクリアおめでとう」と言われる。
・トルタは最後全く登場しない





と、するならば・・・





■前提

1)アリエッタ、アル。トルタ、トルティニタ
かつて、アルとトルタは、自分たちを区別する必要がなかった。
しかし、そこにクリスが登場したことで、彼女らは
自分たちを別々の存在として、二人の人間として
――「アリエッタ」と「トルティニタ」として、
お互いを差別化しなければならなくなった。

だからこの物語には
「アル←→トルタ」「アリエッタ」「トルティニタ」が存在する。

c.f.)
「いつからかな・・・私たちが別々の人間だって気づいたのは」
「私たちは双子だったから、周りから見れば、ほとんど変わらないって思われてた。
二人で一人だって、自分たちでも思ってたくらい
「でもね、それが変わったのは…クリス、あなたがきっかけだったんだよ。
クリス、あなたが私たちを区別してくれたから」


2)piova 涙、雨
クリスが見続けていたものは…「偽り」
だが――彼は、けして「幻」を見ていたのではない。
彼は、「雨としての嘘」を、そして「ココロの涙」を見続けていた。
SR世界の雨とは「目に見える虚偽」であり、それは逆の意味での「真実」なのだ。

piovaとは、彼の鬱度計、あるいは「ココロの水量計」などではない。
それは、クリスの、そしてトルタの、ココロの内の「虚偽度メーター」

c.f.)
ファルシータルートにおいて、一度0となったpiovaメーター(=クリスのファルシータへの100%真実の愛)は、クリスがファルシータの嘘に気付いてしまった時点で大きく振り切る(ほとんど全て嘘に変わる)が、彼が、そんな彼女をすら受け入れることを決めたことで半減し、嘘のまま固定化された(そしてトンネルを抜けた先、空は晴れる=彼の涙は一度枯れた)。しかしクリスが、故郷の街で事実を知ったことで、彼の世界にはまた雨が降り始める。それは、彼が本当に好きだったアリエッタへの涙雨であり、そして本当に彼女を好きな自分に対する、偽りの雨。





※了承事項
a)すべてのエンドにおいて、夜空に煌めく光が見える
b)フォーニは、「アル」である =アルが消えれば、フォーニも消える
c)しかし フォーニは アリエッタの体に戻ったとは限らない
d)フォーニエンドが da capo にある





■al fineの初期構造
「私は私で、手紙を送っているのも私で、クリスが好きなのも私で……
 では、私は誰だ?」                 ――トルティニタ

初日 12/15(木)  一人称が全く出てこない冒頭。
「冬の日差しは強くもなく弱くもなかった。窓辺に置いてある鉢植えから、ローズマリーの香りが風に乗って漂ってくる。」
あれ? こんなのは、明らかに”トルタ”のセリフではない。

「土がひからびて割れている。そんな陽気な午後の一時を、クリスから手紙で過ごしている。」
この皮肉。そう、これが、かろうじて、”トルタ” …いや、やはり、何かおかしい。

「本当に綺麗な、青い空だった」
「この空は繋がっているはずなのに、クリスのもとでは雨が降っているという」
「それが、私とクリスの距離だ」

思い出して欲しい。SRの世界では、「偽り」は「目に見える雨」なのだ。晴れ渡った青空が見える以上、その感情はけして、「偽り」のものではない。
…だが、誰にとって?

…そしてなぜ、彼女は、ほとんど、悲しくない?



二日目 12/8(木) 一週間、戻る
「雨の降る街から、雨の降る街へ。」
クリスの元に、アルからの、つまりトルタからの手紙が届いたのは、先週12/1のことである。つまり、その手紙が出された時点では、まだ、トルタの心には「雨」が降っていたことになる。

「一週間前に降った雨は、たった一日で止んでしまい、
 今ではその名残すら感じられなかった」

一週間前の木曜日=トルタがアルであるはずの日に、彼女は雨を感じていた。
そう、12/1の時点では、トルタにとって、そこにはまだ”かろうじて”、
何か「偽り」、あるいは「涙」が残っていた。



三日目 12/1(木) 一週間前、雨の日
――雨が降り続ければよいのに。
――嘘が本当になってしまえばいいのに。
――この世界が、私のついた嘘のように、優しくなってしまえば良いのに。

今、ここには、二つの嘘がある。それは
「アルが故郷で待っている」という嘘と、「トルタがアルである」という嘘
そう、そこにはまだ二つの嘘の、可能性があった

「クリスのことを想い、嘘に嘘を重ねて作り上げた手紙。
数だけで言えばその半分以上は真実で、
残りのほんの少しだけが嘘だった」

その「嘘」とは、いったい、誰にとって?
そしてこの「雨」は、誰にとっての涙?

そんなことを考えながら、私は髪を結い、気持ちを引き締めた。
こうしていると、自然と顔つきも変わってくる。
自分が別の誰かになっていくようだった。

おかしい…これは逆だ!

「さっきまで、目の前にいた方こそ、私自身ではなかったのだから」

「・・・私はトルティニタ」

彼女は、確認している。強い確認が、必要だった。
それは、何のために?



四日目 11/24(木) さらに一週間、そして
「手紙を書いているとき、たしかに私は他の何者かになっていると感じることがある。」
「トルティニタとしてではなく、アリエッタとして。」
「…それでも私は、私だった。」

トルティニタとしてではなく、アリエッタとして。
…それでも「私はトルタだ」と、自分に言い聞かせているトルタ。
言い聞かせなければ行けなかったトルタ。
では、何が、「それでも」なのか。「私」とは、誰なのか。

そのことが意味することは、おそらく、一つしかない。
彼女は既に、自分がトルタだかアルだかわからなくなりつつある。
いや、むしろトルティニタは、「トルタ」として、
「アル」の姿もまた、彼女自身であると認めはじめているのだ。

「クリスへの気持ちは真実だった。これだけは唯一真実だと誓える」
…つまり彼女にとって、既に他のすべては曖昧なのだ。
ただ一つ真実と彼女が認められるもの。それは
トルタが、そしてアルが、同じく抱く、クリスへの想いだけ。

彼女の言葉を借りれば、もともと彼女ら二人は、一つのものだった。
しかし、二人はあえて、役目を分担した。
それはすべて、クリスへの、彼女らの想いのため。
しかし、クリスが選べたのは、当然ながら、ただ一人で…




■そして三年前――「トルティニタ」だったころのトルタの物語
フィルムのシーン=「トルティニタだったころの自分(今の自分とは異なる自分)」
を客観視する、トルタ=アルの視点。

三年前、トルタとクリス 列車の中
座席にもたれかかり、クリスは死んだような目で外を眺めていた。
私が何を言っても、反応しない。

「トルティニタ」として見て貰えない事実

トンネルを抜け、青空が広がった瞬間、クリスは苦痛の叫びをあげる。
それは、事実を認めてしまうことの痛み。
トンネルは、すべてから目を背けていたクリスの象徴であり
青空とは、美しいまでに苛烈で冷徹な、真実の象徴なのだ。

「大丈夫だから、クリス、ここにいるから」
「…アリエッタ?」
「…トルティニタ」

だが、心が痛みすぎたクリスは、ここで現実を直視することを止める。
「顔を上げてそう言ったけど、既に苦痛に歪むこともなく、無表情だった」
彼は現実の痛みを忘れるため、虚偽に逃避した。そして。

「・・・雨?」
クリスが突然変なことを言いだした。

それは同時に、トルティニタに、アルへの道を歩み始めさせた瞬間でもある。
トルタはここで、この瞬間、クリスに、トルティニタとして見てもらえなくなった。

「私に与えられた役割は、重大で責任のあるものだった」
「その重さに耐えかねて、叫び出したくもなった」

それは彼女がアルになる、ということ。そして、トルティニタは、それに耐えられない、ということ。

クリスはまだ窓の外を見ている。
膝に置かれた彼の手にそっと触れ、その暖かさを心に刻み込む。

「…クリス、私が守ってあげる」
「・・・・。」

だがクリスは、「トルティニタ」を見ようとしない。
今、彼の世界にいるのは、アリエッタだけ。

アルはここにはいない。
そしてたぶん・・・どこにも。
クリスは私のものだった。


(回想終わり)



■al fineの初期構造・解  トルティニタ→トルタ→トルタ=アル→ そして。
12/15 → 12/8 → 12/1 → 11/24 → 三年前
「トルタ」は一週間ずつ、本当の自分、「トルティニタ」へと戻っていく。

あの曖昧な結末で、多くの読者を当惑させたda capo
それはつまり、
時間が経つに従って、トルティニタがアリエッタに近づいて行く物語なのだ。
al fineは、時間を逆に戻すことで、それを如実に示す。

そう。

alfine冒頭にて、我々読者が、「トルティニタ」を「アル」だと誤解した理由。
それは、けして、叙述トリックのせいなどではない。
それはまさに、
この時点のトルティニタが、ほとんどの点で、本当にアルだったからである。





■これまでのまとめ  da capoというルートの真実
繰り返そう。

da capoとは
時間が経つに従って、トルティニタがアリエッタに近づいて行く物語。

そして

alfine冒頭、12/15木曜日
読者が、「トルティニタ」を「アル」だと思うのは当然なのだ。
なぜなら、
この時点のトルティニタは、ほとんどの点で、ほぼ、本当に「アル」だったから。

そう、それはほとんど、「真実」になりかけていたのだ。
少なくとも、「語り手」である「トルタ」にとっては。


だが、その日、「真っ青な空」の下で、トルタはこうも呟いている。
「この空は、本当に私に似合っているのだろうか」
それは、彼女のココロのどこかに、まだ雨雲が残っている証。
それは彼女の、「トルティニタ」としての悲しみであり、
同時に彼女が自らへ押しつけた、彼女自身の欺瞞に気づいている証拠でもある。
まだ、手遅れにはなっていない。トルタは、まだ、かろうじてトルタ=アルだ。しかし。



al fine その後のトルティニタ、そしてクリス  「二人はどんどん近づいている」

――彼女がトルティニタだった時には、アリエッタに送られてくるクリスからの手紙に、アルとして手紙を書くことは、「偽り」であるから、彼女の世界にも時折「雨」が降っていたに違いない。しかし、トルティニタがアルになることで、クリスからの手紙は、真実、彼女にとって嬉しいものとなり、その結果、トルタの世界からは、全く、雨が。


12/18 トルタ、独白
「それは、アリエッタとして優しく接し、このまま卒業させること。
クリスがまだアルのことを好きでいるのなら、二人は案外うまくやっていけるかもしれない。
例えアルの意識が戻らなくても、クリスがそれを克服できるのなら、私はそれを助けるだけだ」
けして「アルを看病するクリスを助ける」と言っているわけではないことに、注意。

1/1 アル=トルタ アリエッタとして
「――私はすでに、クリスのことは諦めた
だから私は、クリスがアルのことをより好きになるように、愛情を持ち続けていられるように、明日会いに行く。
――そしてそれは、私の最後の思い出にもなるだろう。クリスとの、最後の楽しい思い出に」

1/5 アル=トルタ 手紙にて
『ただひとつ、聞かせてください。トルタのことをどう思っているか』
もしもクリスが私のことを好きだと言ってくれれば、私は何に変えても彼のために全てを捧げるだろう。アルのことも、卒業演奏のあとにきちんと話し、その上で彼の支えになる。望まれようと望まれまいと、最後まで彼の幸せを願って行動する。

『そしてもし、アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っているのなら――
私は身を引き、アリエッタとして彼をいたわるだろう』

1/7 フィルム――「トルティニタ」 風邪の思い出

「あなたが一言、アリエッタのことが好きだ、とだけ書いてくれたのなら、
私はよろこんであなたとアルのために全てを捧げたでしょう」
「――諦めろ」
醜い自分のことを。そして、手に入れればいい。
最愛の人を、最悪の方法で。
私はもう、鏡を見ることはないだろう。

…ここでついにトルティニタは、鏡、すなわち「もう一人の自分=姉」と
トルティニタとしての「自分」の差異を視覚確認する手段を破壊した。







■重要:つまり、端的に述べるなら、トルタはこの時点で、こう決断した。■
「クリスが真実、アリエッタを愛し続けるのなら、私はアルとして生きよう」。


※了承事項
a)すべてのエンドにおいて、夜空に煌めく光が見える
b)フォーニは、「アル」である =アルが消えれば、フォーニも消える
c)そして フォーニは アリエッタの体に戻ったとは限らない。
d)フォーニエンドが da capo にある

※違和感
・アルはやせ細ったと言われていたが、実際は少しも痩せていなかった。
・「アルはフォーニで、フォーニはアルだった」
・「ごめんなさい、私は”いつも”あなたを違う方へ…」
・「フォーニであったときのくせなのか、アルはあれからちょっとだけ口うるさくなった」
・「君のために作った曲なのに、どうしてこう、音程があわないのかな?」
・真トルタエンドでだけ、「ゲームクリアおめでとう」
・フォーニエンドでだけ、アルが死なない
・フォーニエンドにおいても、夜空に魂のような光が煌めく


・フォーニエンドにおいて、トルタはその後、全く登場しない














■結論:真・フォーニエンド解釈
すべての仮の幸せを排除した結果、辿り着いた真実は、絶望である。
『もしクリスがアルを愛し続けているなら、アルになってもよい』


・トルタにとって、アルとしての自分は、クリスの前に「自分(≠トルティニタ)という存在がいる」ことを実感するために、必要だった
・トルタ「もしクリスがアルを愛し続けているなら、アルになってもよい」
・それは、完全な欺瞞。しかし。

・トルタはクリスのために、いや、自分のために、アルの振りをし続けることを決めた
・トルタは三年待った。たかが半年、体が不自由な振りをすることなど、なんら苦にはしないだろう
・「トルタ」が「アル」と同一化してしまったから、フォーニは最後まで消えない
・だが「アリエッタ」は、他のエンドと変わらず、静かにこの世を去っている。

間違いない。
すべてのエンドにおいて、アリエッタ(≠)アルは死んでいる。
すべてのエンドにおいて、あの夜空に煌めく光は、アリエッタの魂なのだ。

フォーニエンドにおいて、フォーニ=トルタはけして歌えない。あれほど美しい歌声を持っていた彼女たちは、もうけして、歌えないのだ。混ざり合ったふたりには、もう自分が何者かがわからない。また、わかるわけにもいかない。二人の姿はまるで、向かい合わせの二枚の鏡に映った、互いの鏡像。そのどちらかが欠ければ、二人とも消えてしまう。二人は、一組でいるしかない。しかし、それでも、けして二人のココロは同じではない。だが一つの体からは、ただ一つの”うたごえ”しか紡げない。そう、ふたりとも、自分の、本当の”うたごえ”が、出せなくなってしまった。そしてそのことが、この”うたごえの世界”の中で意味することは――


「ほら、僕なら、何度でも付き合うから。うまく歌えるようになるまでね」
この音楽教室の最初の生徒は――
やっぱり歌が下手な、僕の最愛の人だった。

なんという、皮肉。


――フォーニエンドとは、『シンフォニック=レイン』という物語で最も、悲惨な結末である。