シンフォニック=レイン 個人的視点

hajic2005-01-24

イロニー、無限否定性。ソクラテスが行った致命的思考実験の系譜。目に見えるもの、知覚できるもの、そして脳裏にうかぶもののすべてを徹底的に疑った結果、世界には何もないことが判明してしまった、というのが西洋哲学の流れです。神の言葉も、人の言葉も失った我々の生きるこの現実とは、まさに一切の確信が消滅した、迷子の世界なのでした。
以下、このイロニーを基軸とした、「私にとっての」シンフォニック=レイン解読。
哲学は門外漢のため、インチキくさいところは多々あるものの。
■ネタバレです。クリアしていない人は見てはいけません。
以下、白黒反転。



シンフォニック=レイン テーマ考察
(1)本作の主人公とは
 いったい誰なのか=実際のところ、クリス個人は、何一つ解決できないのだ。現実を受け入れようとしないクリスを現実に引き戻し、ハッピーエンドへ向かわせることができたのは、(ニンナの助力があったとは言え)トルタのみである。もちろん、フォーニエンドがあるじゃないか、という異論はあるだろう。しかし…
(2)フォーニエンドなるもの
 果たして、これは本当に存在したのだろうか=トルタ視点の裏付けのないそれが、全てクリスの生み出した幻でなかったと誰が言い切れるのか(なにせ彼には前科があるのだ!)。そしてもし存在したとしても、やはりフォーニは現実のそれではない。クリスが非現実を選択することが、結局のところ彼の最高の幸せにつながるのだとすれば、これを皮肉と言わずして何と言おう。
(3)da capo編
 それは事実を否定し、ココロの中の真実へ向かって突き進む人物たちの物語。故に、それに飲み込まれたクリスが破滅し、現実を選ぶトルタがはじき出された世界である。クリスがどう選択しようとも、その全ては必ず悲劇に結びつく。そしてフォーニエンドが、その内に含まれることに注意したい。それが本当に幸せなものかどうかは、極めて怪しいのだ。
(4)フォーニ、その存在と意味
 シンフォニック=レインという物語が幸せな結末を迎えるために、最も重要な要素でありながら、同時に最も曖昧な存在。彼女はけしてハッピーエンドへの絶対条件ではない。つまり全てのシナリオに存在が描かれながら、彼女が幸せな結末を用意できたのは僅かに二つだけ。さらに、彼女が最も強力に世界に干渉したと思われるal fine編において、彼女の姿は一切現れない! 
(5)そして『空の向こうに』
 この物語にとって、幸せな結末というのは何なのだろう。アルとトルタがそれぞれ天と地、ココロと現実を表しているのは明白だ。現実世界ではトルタがクリスと結ばれる代わり、アルは死亡する。一方ココロの世界では、アルはめでたく救われるが…それは極めて趣味の悪い結末とさえ思えなくもない。幻想と現実が混じり合ったそこでは、何が確かなのか、もうさっぱりわからない。
そう、降りしきる偽りの雨が止んだ後に残る真実、それは、何もかもがあやふやな、何一つ確かなものがない世界   ファルを狂気に追いやった絶望である。雨の世界=神の嘘が真実を隠す恩寵の世界とは、つまるところ我々の生きるこの世界なのだ。信じるべきものが全て失われた世界に生きる人々は、あらゆる偽りの中に生きるしかない。シンフォニック=レインの世界に、本当の幸せをもたらす規範は、いったい。

そして、最後に残る謎。シンフォニック=レインという名前の持つ意味とは。











・・・・以下、とっちらかった思考の残滓。

■目的論的運動の悲劇 − ファルシータとイロニー
アリストテレス的な世界観にあっては、すべてのものが「可能態」から「現実態」へ向かう運動のうちにある。そしてもはや現実されるべきいかなる可能性も残されておらず、最高度の現実性を備えているのが、「純粋形相」であり、これは「神」とも呼ばれる。(中略)つまり、すべてのものはこの「純粋形相」を目指す目的論的運動のうちにあるのである。

全ての存在は何らかの「材料」を元に、それぞれの「可能性」に従って生み出されるが、ひとたび存在として完成するや否や、それはさらに新しい「可能性」のための「材料」となる。種は木に変わり、木は材木に変わり、材木は机に変わり、机はより優れた机に変わり…。次々に新しい存在を求め、古い形を捨て去ることで、全ての存在はいつか至高の存在、それ以上何も変化することのないものに辿り着く。それは「神」と呼ばれても「原理」と呼ばれても良い、とにかく”完全”なもの。
しかしその過程、より上位の存在へと繋がる階梯の途上では、過去の形の全ては否定され、捨て去られる。故に、これを実現するためには、一切の形に愛着を持つことはできない。愛着を持たないからこそ、全ての形を振り切って上昇できる。無限の否定による上昇、ファルの生き方は、まさにこの目的論的運動そのものだ。”究極的には”彼女は、彼女自身の形すら捨て去るだろう。彼女にあるのはただ一つ、「天を目指す」という目的だけなのだから。

↓ここから↓
(■変化しないことの悲劇 - トルティニタとイロニー
現実(=地)を受け入れることから逃げるクリス、そして父親の真の姿を受け入れることを拒否するリセもまた、天に心を惹かれている(=彼ら自身の中の、より素晴らしい”真実”を目指し、彼らは現実を捨て去る)と言って良い。そして彼らは、人の身には辿り着けない天を目指したが故に、破滅が定められている。だとすれば、ただ一人その軛から逃れ、結末を操作できる点で、本作の主人公は、クリスというよりもむしろ、トルタなのである。

しかし、いかにトルタが天と地の間にさまよう存在だとは言え、外部の力添えなしには、最終的には必ず地を、つまり彼女にとっての不幸な現実=”アルに引け目を感じたままの自分”を選択してしまう。だからこそ彼女は、そのままでは天を見つめ続けるクリスと結ばれることができない。彼女は天を見なかったが故に不幸になる。天を見てもいけないし、地を見てもいけない。どうすればいい? まさに、心は迷子のまま。)
↑ここまで↑ 保留。

■魔法、あるいは絶望 - フォーニの存在というイロニー
この偽りに満ちた作品は、その悲劇的物語の核心に、イロニーの対象とならない不鮮明な、しかし確かに存在する矛盾要素「魔法(=フォーニ)」を介在させることで、かろうじて”二つ”のハッピーエンドをもたらす。故にそれは、”完全に”幸せな物語などではない。しかし、”完全”を求めること自体が”不幸”の原因であり、また”完全”を求めないこともまた”不幸”の原因だとすれば、私たちは一体どうすれば良いのか。この物語は「魔法」を提示した。ところが、現実には、「魔法」は存在しない…。まったく、シンフォニック=レインという物語は、隅から隅までイロニーの塊なのである。


…イロニーを生み出したソクラテスは毒杯を仰ぎ、日本の著名なアイロニスト、太宰は玉川上水にて自殺した。本作を遺作として亡くなった岡崎律子、彼女の死因にそれらとの関係を見てしまうのは、やはり穿ちすぎだろうか。