『アイドルマスター』を動かすトラウマ

アイドルマスター』という作品は面白い。基本的にヒロインたちは才能の持ち主で、トップを取れる人材である。だから、もし彼女たちがトゥルーエンディングを迎えられないとするなら、それは全てプロデューサーたるプレーヤーの責任なのだ。それ故に、適切なランクに達することが出来なかった時の失望は大きい。むしろ、ほとんど自責のレベルに達してしまう。


http://www.youtube.com/watch?v=ceW3V2Tafec Youtube


http://nakazato.blog.shinobi.jp/Entry/1/ 「『アイドルマスター』というコンテンツの特異性」
この感慨は僕だけの特殊な思い入れかと思っていたら、狐汁の中里キリさんが『ZENOGLOSSIA*1』の放映とその後のアイマス原作の人気について「いわばアーケード版における、ファーストプロデュースの失敗にあたる出来事なのかな」*2と書いているのを発見した。どうやら、みんな同じようなトラウマを抱えているらしい。

さらに引用したい。「多くのファンの願いは、“アイマスの声優さんたちに晴れ舞台を!”という物だった」。ここで言及されているのはアイマス原作の声優(釘宮女史を除いて比較的無名)を選ばず、いわゆる豪華声優陣(堀江由衣田村ゆかり中原麻衣etc.)を起用した大手プロダクションによる『アニメ版アイドルマスター』への反感と、原作声優がそのように扱われたことへのファン側の悔しさやり切れなさについてであるが、「それこそが現在のアイマス人気の原動力ではないか?」と彼は主張するのである。

僕はアーケード版アイドルマスターは未経験であり、おそらくこれからも経験することはない。けれど、上記引用の言葉は深く心に響く。「彼女たちに、晴れ舞台を!」。そう、それである。『アイドルマスター』という一介のゲームに多くのプレーヤーが——少なくとも中里氏や僕が——のめり込むのは、「当然成功してしかるべきだった少女を、まさに自分のふがいなさによって台無しにしてしまった」という実感からだ。こんなに魅力的なのに、こんな扱いなのはおかしい。それが全ての原動力になっていると言って良い。

ニコニコ動画においてアイマスMADが盛んなのも、そしてブログ界隈においてアイマスMAD紹介が続くのも、おそらく同じところに根が存在する。彼女たちは魅力的なのだ。この魅力を表現できないとしたら、それは自分の努力不足だ。彼女たちに晴れ舞台を踏ませたい。今度こそ。こんなに楽しませてくれた、せめてもの恩返しとして。どんなに酷いプロデュースをしても、アイマスのヒロインたちはプレーヤーに微笑む。失敗に終わっても、主人公を責めることはない。けれどプレーヤーには分かる。悪かったのはみんな俺だと。

その意味で、『アイドルマスター』はトラウマ系のゲームなのかもしれない。非常にシンプルな目標を持っているが、実のところ容易いゲームではない。それどころかまずプレーヤーのふがいなさに焦点を当て、彼の心に「大失敗の想い出」とでも言うべき鬱屈した感情を生み出す。数々のトライ&エラーでアイドルを頂点に立たせるまで、この鬱屈はカタルシスに変わらない。しかも、彼女らをトップに立たせるために切り捨てなければならない日常シーンが存在することで、とにかく成功すれば良いというものでさえなくしている。

プロデューサーは万能ではない。けれど、上手になることはできるし、上手になるべきだ。だってアイドルの記憶とステータスはクリアされても、プレーヤーのスキルと想い出は蓄積する。ほら、前回より成長したところを見せてみよう。あの結末を上書きしよう。アイマスの与えるトラウマはいつもこんな風にプレーヤーを焚きつける。時に貶し、時におだてながら、様々な側面で繰り返しレベルアップを要求する。

結局『アイドルマスター』はアイドル育成シムの姿をかぶったプレーヤー育成ゲームであり、案外、由緒正しいロールプレイングゲームの歴史上に存在しているのかもしれない。そしてそのモチベーションが「いつかの罪滅ぼし」である以上、それが発売から一年近く経つ今ますます広く人気を集め、DLCというお布施が飛ぶように売れている理由もまた、理解しやすいのではないだろうか。

*1:バンダイビジュアルプロデュース、サンライズ制作のアニメ版アイドルマスター。原作とは大幅に異なるロボ×美少女アニメとして大型展開されたが、成功したかどうかには疑問の声が多い。通称アニマス

*2:http://nakazato.blog.shinobi.jp/Entry/1/