iM@SMAD 生きている物語の中で

http://d.hatena.ne.jp/hajic/20071027/p1
先日の記事にお返事をいただきました。見る専さんのコメントを引用しながら、
それを口火に、また日記風に持論を展開していきたいと思います。

MADなのかノーマルPVなのか曖昧な、「踊らせてみた」動画が登場してくると思いますが、
こちらに関しての不安は消えません。メーカーの公式チートでしかアイマスを知らないで
「愛」ある作品が作れるのか?

現時点でも、箱○自体持たなくても「愛」ある作品が作れる実例はいくらでもあるわけで。
……でも、何か心配なんですよねぇ。

鬱陶しいくらいの長文になったので結論を先に書くと
アイマスMADはいまや自己増殖する驚異の物語になっているので、どんなMADが投入されようとも、あらゆる手段で無理くりばっちりアイマスMADにしてしまう矯正力を持っているだろうから、たぶんきっと大丈夫」。


見る専さんの危機感――春香たちの夜の終わり
アイドルマスター』の新作として告知されている『Live For You(以下L4U)』が、現在想定されているような一種の「ライブシーンエディター」だとしたら、アイドル育成シミュレーションゲームという本編のストーリーからざっくり切り離された、音楽に合わせてとりあえず動くアイドルたち、という作品が多数製作されるのではないか。それは、『アイドルマスター』という原作の元に展開されてきた、アイマスMADという”エクステンドな物語”を崩壊させてしまうのではないか――見る専さんの懸念は恐らくこのようなものではないかと考えました。

アイマスMADについては、二つの大きな視点があるように感じます。一つは「物語の欠片」としての視点、もう一つは「美しい映像作品」としての視点。見る専さんの立場は、たぶん前者に重点を置いているのだと思います。だから、コメントで使用されている「愛」は、言い換えれば「物語を内包した」ということなのでしょう。
美しいライブシーンは機械的に合成できても、そこに物語を埋め込むためには作品理解、つまり『アイドルマスター』本編と、望むべくはそこから延長されたストーリーであるアイマスMAD群の物語を踏まえていなければならない。ではライブエディターとしてのL4Uしか知らない人にそれができるのか。無理だ。
そこで、もし、「美しい映像作品」という観点がアイマスMAD鑑賞/評価の主流になれば、それこそL4Uは完全なツールになる。アイマスさえ、世に数多あるビデオコンテンツの素材の一つに成り下がるだろう。文字通り「音楽に合わせて少女たちが踊る」という紹介で済むような。その時アイドルマスターという物語は、完全に終焉を迎えることになる。これは、悲しい。


物語としてのアイマスMAD――名前を持ったポリゴンたち
アイドルマスター』を知らない人がアイマスMADを初めて見たとき、彼は踊っているキャラクターを個体認識していません。もちろん人数や外見的特徴の差違には気づくでしょうが、それぞれ異なる背景や人格を持ったアイドルとして認識しないはず。最も単純に言うなら、彼はそれぞれのキャラクターの名前を知らない。
もし彼がアイマスMADに興味を覚えた場合、比較的初期の段階で彼は、各アイドルには名前がある――それぞれ性格が付与されていることに気づき、それらを知りたくなるでしょう。それくらい、アイマスMADにおいて、それぞれのキャラと曲の間にある結びつきの重要性は高い。ほとんど本質的だと言ってもよさそうです。
同じ使用曲でも、別のキャラが出演すれば全く別のイメージを与えるMADができる、といえばわかりやすいでしょうか。一つのアイマスMADにおいて、曲とキャラは相互に作用して、一つの小さなストーリーを作り上げます。そしてこの作用こそがアイマスMADの味であり、最もファンの心を引く要素となっている、といって間違いはないでしょう。
逆に言うと、視聴者がこの結びつきの重要性に気づかない限り、アイマスMADはしばしば「良くできた学芸会(あるいは見ていられない宴会芸)」以上のものとは理解されないことになります。曲に合わせてポリゴンが動いているだけですから、はあ頑張ったね、とは言われるでしょうが、続いて、お前らは暇だなあとも言われる。そんなものです。


ライブ・ストーリー ――アイマスMAD、生きているすごい物語
つまり、アイマスMADが他のビデオコンテンツと一線を画しているのは、それが背景に持つ膨大でユカイな物語データです。企画書数百枚では収まらない、それこそ原作『アイドルマスター』全シナリオよりも拡大し、しかも今まさに拡大を続けているインクレディブルな物語がその背景に存在すること、まさにそれこそがアイマスMADの特質であり、人気の源泉なのです。
美しく、高い技術が投入された少女の動画であれば、電通にも作れます。むしろ、マンパワーや資金を豊富に投入できる彼らの方が、何倍も(技術的に)優れた作品を完成させることでしょう。しかし、彼らには物語がない。アイマスMADにはあります。ゲーム制作スタッフが、MAD制作者が、数限りないファンが積み上げてきた(いる)、膨大なレコードが。
天海春香一人取り上げてみたって、そこにあるのは実際、言葉に出来ないくらいの壮絶なドラマ。持ち前の明るさ、したたかさ、そしてファンの愛情に支えられ、本当のどん底から這い上がってきた彼女は、今や、全アイドル中追随を許さないカリスマです。しかし、そこに至る過程は、まるで自意識確立に藻掻く一人の少女の青春物語そのものでした。
物語抜きでは、どんな綺麗な動画だとしても一度、良くても数度見れば飽きます。素敵な音楽に頼れば、それこそ動画の存在意義がなくなるでしょう。アイマスMADの見た目がどれほどビジュアル的な美しさ、愛らしさを主張していようとも、本質が別の場所にあることは、その人気が証明しているはずです。アイマスMADは、何度見ても楽しい。それは、アイマスMADが、本当の意味でライブな物語だからです。日々、文字通り刻々と刻まれていく、全く新しいタイプの、生きた物語。
もしかすると、今やアイマスMADという巨大な物語は、それ自らが新しい物語を紡いでいるのかもしれません。あるPさんが新しいMADを作ろうと決める瞬間、また僕らがMADについ何か書き込んでしまう、その衝動自体が、根本的にアイマスMADという物語の引力に起因する以上、それはアイマスMAD自体が僕らの手を借りて、自らの記述を増やしているとも言えるのではないでしょうか。
この力が働いている限り、例えアイマスMADの文脈を知らない制作者によってアイマスキャラを用いたMADが登場したとしても、それは瞬く間にアイマスMAD以外の何物でもなくなるでしょう。それが変な物であればあるほど、多数のコメントが投下され、また多数のPさんによってパロディ化されるでしょうから。
その意味では、僕らアイマスMADファン自身が、もはやアイマスMADという物語の中に、その要素として存在しているとも言えるかも。ユカイユカイ。


新米Pさんの金言――MAD作成なんて面倒なもの

MAD作成なんて面倒なものは、なにかしらの愛情なり思い入れがないとやってられません。
それがない作品って、現時点でどれだけあるんですかね。

それに、新作が来たって手間がかかるのは変わりません。
もし仮に、素組みに近いもので済ませる人が大多数発生するのであれば、
それはこのジャンルがもの凄く活性化したということではないかと。

いやもう、Pさんたちの情熱が伝わってくるコメントです。
「超面倒くさいんだよ、こんなのするのiM@Sに萌え狂ったアホだけだよ、途中で適当に投げ出す判断力のあるような頭の良い人は普通、元からやらないよ」
この想いは信じて良いんじゃないかと僕は思いますが、どうでしょう。
ひょっとして、うっかりした人が続々とMAD製作に足を踏み入れてくるかもしれないけれど、それはそれでどうにかなるんじゃないか、少なくとも興味はあるわけで、次々原典に当たってくれる可能性もないわけじゃないでしょうし・・・。
心配なことは山ほど、それこそニコニコ動画自体がどうなるのかガクガクブルブルな毎日ですが、最悪のことには備えつつ、楽観的な姿勢で行きたいなあなどと考えています。少なくとも、アイマスMADは今のところ楽しさ益々絶好調という気配ですし、新しいイベントなども続々。


ああ、屋外で巨大スクリーンでビールとか飲みながらみんなでわいわい観賞会したいなあ。バンナムさんしてくれないかなあ。CDとかグッズとかごまあえの素とか売って。声優さんたちもステージして、おまたせバンナム版権縛りのMAD大会。二泊三日くらいで夏休みとかに。万難を排して行くよう。やよいフィギュアも買う。はるかっかサインも貰う。