京都の話

京都人というのは本当に嫌な人種だ。にこにこしながら人を切るのだ。もちろん、京都人にも言い分はある。お出でとは言ったけれどいつ何時お出でとは言っていないし、そうだねとは言ったけれど僕もそう思うとは言ってない。君に裏切りと言われるのは、実に心外である・・・。

この息苦しい街でずっと顔をつき合わせて生きてきた人々は、摩擦をできる限り減らすための笑顔と、決して他人に踏み込ませない本性と、そして、そこを踏み越えてしまった相手への冷酷な変わり身を身につける。ここはおそらく、世界で最も他人との距離を実感できる街の一つだろう。

京都で生きていく秘訣を一つだけ言うなら、彼の相づちを信じないことだ。どんなことでも、常に相手が結局は他人であることを念頭に置くこと。その困ったような微笑みの下にあるのは、嫌になるくらい生々しい本音と、絶対的な自己中心思考と、諦めきった現実主義であって、友愛ではない。


京都人だって、自分の浅ましさを知らないわけじゃない。でも、それでもこの街で生きていくためにはそうするしかないのだ。義理も人情もないわけじゃない。ただ、それでも彼は京都人なのだ。この狭い狭い街でしくじることは、一生の破滅なのだ。破滅するのは、嫌なのだ。

京都人の恐れるものは、京都という街そのもの。彼は京都のほかに街を知らず、京都のほかを街と認めず、この狭くて息苦しくて怖い街で、縮こまって生きている。とても臆病で、いつも相手に触れないように、やりすぎないように。何をするときも、何を言うときも、相手のそぶりを覗いながら。

それでも数多の人々が、京都という街に魅せられる。泣きそうな現実主義者の住む、ほぼ完璧な幻想の街。目立つことが罪であり、余所者に冷酷なこの街に、彼らの殆どが打ちのめされるとしても。あらゆる裏表を使い分け、何も信じず、すべてを諦めながら、自分という執念を捨てきれないこの街に。


京都人を信用する目安を教えよう。彼が家にあがらせてくれるまでは、あなたは彼にとって、完全な他人だ。もし彼の家に上げてくれたなら、それはあなたの見定めだ。そして京都人があなたに面と向かって毒を吐き始めたなら、おめでとう、あなたは彼の”範囲”に踏み込む許可を得た。

けれど彼の“範囲”に入ることは、彼の友人であることと同義ではない。どころかこの範囲こそ、京都人との付き合いの本番であることを承知すること。彼はあなたと少しまともに話をしてみる気になっただけで、いつ逃げ出すかの間合いを計るために、際どい言葉を投げているのに過ぎない。

どんなに親しくなろうとも、彼には常に本音を語るように。面と向かって、たとえ嫌われるとしても、お前はおかしいと言うように。普段、嘘の相づちの中で生きている彼にとって、一度”範囲”の中に入れた相手に本音を隠されること、そしてその気配は、何にもまして裏切りとなる。

彼が明確なリアクションをするならば、結果はどうあれ、あなたの意図は効果を発した。悪態を突いて見せたとしても、彼はこの件に関しあなたに一目置くだろう。そしてもし、彼が困った笑顔を見せたなら――速やかに、少し距離を離すこと。あなたは踏み込み過ぎて、彼は逃げ出す直前だ。


彼が許容できる範囲で、京都人はあなたに誠実だろう。あなたが彼に示した誠実さは、彼の許容範囲の及ぶ限り、誠実な対応として返ってくるはずである。けれど、彼は限界を定めていて、それを超すことはあなたには許されないし、実際、彼自身にも許されない。そしてこの限界は、冗談のようだが、毒の投げ合いで探られる。

結局のところ、京都人にとって、他人は他人でしかない。どんなに近づいたとしても、そこに見つかるのは同化できない硬い核だ。愛も友情も信じない。そこにあるのは一種の歪な信頼関係である。私はここまで許す。だからあなたもここまで許す。逸脱は構わない、ただ、もう、あなたを許さない。


京都人の行動、特に発言には、常に裏がある。ただし、それはよく言われるように、常に人を見下したような悪意に満ちているわけでない。ほとんどの場合「この程度の言葉の裏表が理解できないような人だったら、私にはとてもその相手をする器量がないから」という試験のための探りである。

そんな試験をくぐり抜けたときこそ、あなたは精一杯の誠実さという裏を持った手厳しい応対を、心ゆくまで味わうことになるだろう。だから、許して欲しい。あなたが「よくもここまで酷いことを」と憤っているそれは、実は京都人なりの友情であったり、愛情であったりする可能性は、実は結構高いから。