その輝きの

浩瀚堂粋記集 060722付け記事より】
多くの哲学者は言を尽くして、僅かな、多くはたった一つの真理のために膨大な論を展開する。思索とは直観された真理の抽象化の過程であり、読者はそのたった一つの真理のために、泥水を飲み込み、自ら上澄みを抽出するのである。
(中略)
我輩は時代錯誤な教養主義者なのかもしれないが、啓蒙主義者ではない。現代人は啓蒙されない。何故なら権威というものがもはや存在していないからである。
http://d.hatena.ne.jp/koukandou/20060722

紛れもない感動を文字にしようとする時、僕らは言葉の不自由さに直面します。必死で文章を綴れば綴るほど、本当に言いたいことから離れていく歯がゆさ。一方その文章をろくに読みもせず、「テクストは死んだ」などと実に自慢げに、呑気に、しかし絶望そのものの言葉を受け売りしながら、そのくせ自分の話だけは聞いてくれと叫ぶ人々。お前らはアホか、氏ね、ボケ、糞、と言い始めると品がないので、「自分はお前らを啓蒙しようとなど思わない、なぜなら自分が正しいなどとは思っていないからだ、ただしお前らは間違いなく俺より間違ってる」と氏は著述する。この嫌味だらけの文章と来たら! さぞかし周りから嫌われていることでしょう。
それでも、僕は氏の気持ちがわかるような気がします。知れば知るほど語れなくなるもの、それは言葉にならない輝き、思考の先にある信仰。伝えたいことは確かにある。けれど確かに言葉にするすべはない。それでも語ろうとした時、人は唯一神の生み出したロジックに踏み込み、沈黙を選択した時、人は仏陀の皮肉な微笑に沈むのでしょう。

「日本人とはどうあるべきなのか」という日本人としての精神以前に、その人自身の精神があるのであり、何故、自分とはどうあるべきなのかを問わないのか。

全ての知の行為は自らに照らしてはじめて意味を持ちます。むしろ自分に照らさないで読むことは不可能です。ならば僕らは物語を読んでいるのではなく、物語を通して自分を読んでいるのだということに、どれだけの人々が自覚的でしょうか。だからこそ、言葉を通して世界を見ているわたし、その視点が見通せなかった陰。その事実の存在、その角度から、振り返ってわたしの立っている位置、その『視点の存在』を知ること、それこそが読むことの本当の意味だと僕は思います。世界は『ことば』でできている。ならば『読むこと』はけして、読書の中にだけあるのではありません。