奇跡の起こらないFATEの話

HDDの整理をしていたらFATE/staynightを発見。ノートの中のささやかな世界を消し飛ばす前に、ちょろりと思い出を再開。それにしてもきのこ氏はどうして最後まで聖杯をまともに起動させなかったのかと思う。それはつまり、そのままイリヤルートの欠落問題になるわけだけれど、どうしようもないくらいにぐだぐだのあの世界そのものに奇跡を起こせるのは、小さい聖杯である彼女をおいてありえないというか、むしろ彼女はただそのためだけに用意された存在だったはずなのに。


以下奇跡の起こらない続き


あの世界そのものへの奇跡というのは、まさにあの物語自体を終わらせること。人間の願いの根本的矛盾――世界から悪を駆逐しようとしたら無理でした、それどころか人間みなごろし推奨の勢いですよ、だからってすっきりバッサリ諦めちゃうのもなんかなあそれいいのかなあ――などという極めて落としどころの難しいお話をうっかり書き始めてしまったきのこ氏が、この手に負えない難題に始末をつけるためにはやはり、それをもって行うくらいしか手はなかったはずなのだけれど。


結局、最後まで奇跡は起こらないまま。具体的には「気の毒な桜に主人公以下読者一同同情すべし」というところで物語だけは唐突に終わってしまったので、それでいいのかなあという行き場所のないムシャクシャした想いがネットのあちらこちらで爆発しておりました。思えばロクなヒロインがいなかったお話で、セイバーは初めから死んでる、凛はアーチャー製造機、桜はごらんの通りというところ。読者としてはいいかげんじゃあどうすりゃ良いんだようと叫び出したくもなる。


むしろ一番気の毒だったのはあんな結末を眺めさせられた読者かもしれない。現実はどうにもならん、という誰でも分かっているようなことを、この上なくヒロイックに始まったお話の最後に持ってこられたおかげで、序盤のヒロイック気分までことごとく台無しという嫌がらせそのものの三部作。フラストレーションは溜まりにたまり、これを一発逆転すればもはや神、という状況であっさり投げ出すきのこ氏の意地の悪さと来たらもう。もはや裏切り行為に近い。


物語を読む時、読者はその物語がどこかで終わるだろう、ということを前提に読み進む。どんなに読みたくない展開が続いても、それはそれとして最後に始末がつけられる、というお約束を信じて。それはお話がお話として存在していること自体が持つお約束で、お話は話すべきことだからわざわざ話されるのだという前提。つまり「その中に何か特別な語りたいことを持っていて、終わりまでにそれを語り切る」というのが、お話が(そこにわざわざお話として)存在する所以であり、読者がわざわざそれに耳を傾ける理由でもある。


ところがFATEと来たらあなた。いやいや現実がどうにもならんことくらいみんな知ってる。そこをどうにかしてくれるのだと期待してずっと読んできているわけなのにこれはあんまりだ。かくしてきのこ氏の仕打ちに酷い目にあった気の毒な読者は、同じくきのこ氏の仕打ちで気の毒な目に遭った桜さんと同病相憐れむ、という無惨な状況を受け入れる他なくなり、当然のようにFATEの世界はむやむやと明けない夜のうちに取り残されて現在に至る。


あるいはきのこ氏は「どうにもならんものはもう、ほんとうにどうにもならん」と言いたいがためだけにあの物語を書いたとしたら。イリヤルートがないのはその象徴。ないものはない。だとしたら本当に嫌な話で、あんなのに出会ったこと自体が不幸。犬に噛まれたと思って諦めるしかない。それが運命、FATEはそんなもの。そしてさしあたりこの文章はどうやったら終わらせられるのか、というのが本当の問題となる。大変難しい。それこそ奇跡。どうしたものかなあ。