シンフォニック=レイン 最終考察 (たぶん)

シンフォニック=レイン DVD通常版
素晴らしい物語は、そのなかに、たくさんの物語を含みます。シンフォニック=レインはクリスたちの物語であると同時に、私たちすべてにとっての物語でもあるのです。嘘や偽り、幻ばかりの不確かな世界で、私たちが信じるべきものは何か。それこそが、この物語に隠された、最後の物語。それは、とても切ないけれど、とても暖かく、幸せな答え。



シンフォニック=レイン …この、あまりにも不確かな世界で


 「ごめんなさい、ほとんど全てが、嘘なの」

信じられるものがない世界。そこに生きていくことはとても辛いこと。なぜなら何一つ、確かなものがないのだから。自分は一体、何のために生きるのか。自分は何のために、今、ここにいるのか。わからない。だからこそ、人は人を愛する。

リセは父親に必要とされるために父を愛し、ファルは幸せであるためにクリスを愛し、トルタはすべてクリスに必要とされるために、そして、そんな自分のために、クリスを愛した。人のために、自分のために、そしてその両方のために。だが、どれ一つ、彼らの問いへの答えではなかった。それらが与えたのは、偽りの幸せでしかなかった。彼らがひたすらに、二人の愛の確かさを信じたにもかかわらず。ではいったい、私たちはどうすれば?

 「でも、これだけは信じて」
「私はトルティニタ。そして、あなたのことを愛してる」

今「私」がいること、そして「私」の中にある愛、それだけを信じること。それはけして”確か”なものなどではない。だが、私たちはそれをただ”信じる”。それこそが、ただ一つの、幸せへの道だから。自分が確かに存在すること、そして自分の想いだけは確かだと、信じること。たとえそれ以外の全ては嘘かもしれなくとも。

 「それが全て」

そう、愛は、ひたすらに愛なのだ。愛は、幸せのための手段であっても、目的であってもならない。愛は手段でも目的でもない。それは、何一つ与えないし、何一つ求めない。それはただ、”自分の中にあるもの”。そしてそれだけが、この世界で信じられる、ただ一つのこと。ただ、自分の中の、そこにただ存在する、想いだけが。

…けれど、一体どうすれば、その想いを伝えることができるのだろう? 私たちがただ一つ信じられること、私たちのココロは、そうだからこそ、ずっと一人ぼっちでいなければならないのだろうか。愛する人のそばにいても、私たちの想いは、悲しいままに、いつまでも自分のココロの中だけに響くのだろうか。最後に残ったその問いに、あの歌が答えてくれる。


 いつもそこにいた 気付かないだけ ココロの瞳で それをみつけるんだ
 きかせて 私だけに きこえる声で
 いつか 止む雨かもしれない 止まぬかもしれない
 でも みえない力を信じていいの いいの? …いいの

 いつか 止む雨かもしれない 止まぬかもしれない
 でも みえない力を信じていいの いいの? …いいの
 いつか 終わるのかもしれない 終わりなどないかもしれない
 でも 止まぬ雨はない だから いいの いいの

いいの いいの? …いいの

       『涙がほおを流れても』




■ 総括 ―― fay 
自分の心の中の愛だけが、確か。世界のすべてが不確かでも。信じること。何も求めないこと(相手の愛さえも!)。ただ、そばにいたいからいる。好きだから好き。伝わらないかもしれない。最後まで受け止めてもらえないかもしれない。それでも今、「私」がいること、そして「私」の中にある愛、それだけを信じ続けること。そうすればいつか、きっと…。

シンフォニック=レインは、一見あたりまえのことですが、確かに愛の物語なのだと思います。それも”恋愛”ではなく、”愛”そのもののあり方について語る物語だと。それは結局、人はなぜ生きていくのか、あるいは人は何のために生きていくのか、という問いへの答えでもありました。その答えはけして生やさしいものではありません。ハッピーなんて言葉とは、ほど遠い。しかし、少なくともこの物語は、ある答えを導き、そして間違いなく幸せに、幕を閉じるのです。