暴走ぎみな 血とさだめの話

血液型占いを信じないという人は意外に多い。ところが彼らの話をよく聞いてみると、人間形成に対する遺伝の影響力自体は疑わないようなのだ。それなら血液も遺伝による要素の一つなのだから、血液型によって人の性向を分類できてもおかしくないんじゃないのと問えば、今度は「50億の人間をたった5パターンに分けるなんて不可能」などと言い出す。彼らにかかると統計学も形無しである。
血液型、或いは遺伝が人間に与える影響というものの本質的な問題は、はたしてそれが肉体のみならず人格形成にも影響を及ぼすのか否か、というところにある。もしこれを是とした場合、極端に言えば我々は単なるDNAの操り人形*1であって、自意識など存在しないということになり、「人の生きる意味」に深刻な絶望をもたらす。こういうのを遺伝子運命論という。夢も希望もない。
意識が宿る場は脳であり、その脳を形成する情報がDNAに含まれる以上、人の性格は多少とも遺伝に影響されるだろう。言い換えるなら動物の行動は本能に支配されているが、その本能をプログラムしているのはDNAという設計図。我々も動物の一種だから、程度に差こそあれ本能の影響からは逃れ得ない。そういう意味では間違いなく人の性向と遺伝の間には関係があると言える。遺伝子運命論を恐れるばかりに血液型占いを無碍に否定するのは、あまりに非理性的だ。
しかし、遺伝子と個体の生物との間の関係は、あくまで片道通行であるということは理解しておかなければならない。遺伝子は生物個体に影響を与えるが、その逆はあり得ないのだ。DNAを変更しうるのは突然変異のみであり、それが定着するか否かは(通常数万年のスパンで行われる)自然淘汰の結果を待たねばならない。つまり、親父がぐうたらだったから息子もぐうたらというのはほぼ100%遺伝のせいではない。家庭の影響である。
そう、人間の性格はある程度遺伝からも(数万年前から変わらない程度には大味な)影響を受けるだろうが、それ以上に家庭や社会といった文化や文明の産物から、圧倒的に決定的な影響を受ける。人の性格を決定するのは遺伝ではなく社会なのだ。とは言っても文化や文明は人間の脳が生み出したもの。脳を設計しているのはDNAだから、やっぱり人間はDNAに支配されっぱなしじゃないか、という指摘もあるだろう。残念ながらそれは正しい。肉の体を持つ以上、人間がDNAの軛から解き放たれることはない。
しかし同時に、DNAが設計した人間の脳は遺伝子への反抗を始めている。例を挙げるなら人は「意識して避妊する」。これが遺伝子の望むところでないことは明かだ*2。人間の頭脳は各自の思考を言語として共有し、文字として保存する方法を編み出すことで、個人の頭脳の外側、すなわちDNAの管轄外に大量の情報を蓄積した。この情報*3こそが文化や文明であり、人類をして遺伝子の専制に対抗させる術である。
人類は文明を生み出すことで、遺伝子に抗う手段を得た。だが悲しいかな、文化を受け入れるものはやはり脳でしかなく、脳は依然として遺伝子の管轄下にある。しかし、我々は既に遺伝子の操り人形などではない。たとえ遺伝子のヒモ付きではあるとしても、我々はそのヒモに気付いている。意識できればこそ、逆らうこともできるだろう。「そうである」という事実は「そうであらねばならない」ことを意味するのではないのだから。

*1:遺伝子とは根本的には単なる情報体であり、現在地球に存在する生物の内部ではDNAという形を取る。その目的はどうやら自分自身のコピーを永久に存在させ続けることであるらしく、手段として自らのコピーを最大限に増やすことを画策する(コピーが多ければ多いほど事故で絶滅する恐れも少ない)。地球上の全ての生物は遺伝子自身によって設計された遺伝子コピー用の生体機械であって、その視点から見れば生物個体など(当然人間も含めて)単なる使い捨ての乗り物である。
ところで遺伝子とは結局のところ、単なる情報体以上のものではないため、実はDNAでなくとも別になんだって良かった。それこそ手旗信号でもくさび形文字でも良かったのである。OSであれば別になんでもいいが、たまたま一番便利だったから現在はWindowsが幅をきかしているようなもので、実際に古代にはDNA以外の遺伝子を持った生物がいた痕跡があるのだ。この点はなかなか面白い示唆を持つのだが、それはまた別の話。

*2:「遺伝子が意図して少子化を指示している」ということは考えにくい。遺伝子は常に「自分自身のコピー数の最大化」を至上目的としているのであって、「ある種の生存」を目的としているのではないのだ。…とは言え、DNAのどこからどこまでが「自分自身」なのかはよくわかっていないらしいのだが。

*3:遺伝子は生命体の組織を構築するための情報体、文化は文明を組織するための情報体。この文章の種本である『ISBN:4314005564:title』を著したR・ドーキンスは、両者を共に「何らかの方法で記述されうる」「記述された自らを延々とコピーし続ける」という点から、同じ性質を持つ、つまり本質的にライバル関係のにある情報体とした。整理すれば前者の名前はDNA、フォーマットはアミノ酸。後者の名前はmeme(ミーム。ドーキンス命名)、フォーマットはあらゆる著作物、頭脳、そしてコンピュータのハードディスク! なお件の書籍は少々難解ながら、気絶しそうなほどスリリングなので、ぜひとも一読されたし。