機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争


少年が憧れる戦争。心躍る戦争。
彼から大事な人を奪っていった戦争。

冨野監督は戦争を終わらせるために、ニュータイプを必要とした。
しかしニュータイプは存在しない。この物語にも、それは登場しない。
ニュータイプならぬ古き人間同士の、小さな戦い。


バーニィ、もう戦わなくていいんだ!」
「アル、これが本当の戦争だ」


観客でしかない僕は、観客だからこそ、
この二人が会話できれば結果が変わることを知っている。
しかしもちろん、戦闘中のザクのコクピット
少年の叫びが届くわけはない。





■『ポケット』批判に対する反論、そしてポケットとガンダムの再定義
 ガンダムシリーズはこの作品を皮切りに”何でもあり”時代*1に突入した、ということがよく言われる。すなわちこの『ポケットの中の戦争(以下『ポケット』)』という作品は、その後のガンダム世界を陳腐化させた戦犯であるという批判だ。

 確かに『ポケット』は、MSV*2に代表される有象無象のプラモ屋のプラモ屋によるプラモ屋のための広告作品群に、作中に登場するMSやMAがそれまでのメインストーリーから大きく外れて多様高性能化することを公式に許したという点はあるかもしれない。事実、『ポケット』に登場するMSは、新兵器のガンダムAREXやケンプファはもちろん、量産機であるジムやザクすら従来の機種とは型番が異なっている。ポケットが戦闘に重きを置く作品でない以上(これは作品を見れば明らかだ)、わざわざ新機種を登場させる必要は、それも全てをそうする必要はなかったに違いない。

 おそらくスタッフ陣は『ポケット』制作にあたって、10年前の(初代ガンダム時のデザインの)MSをそのまま登場させることは作品に古めかしい印象を与えるだけでなく、時代の流れと共に洗練されリアル化した時代のMS達との差異によって、観客に”嘘臭さ”を与えることを危惧したのだと考える。実際初代ガンダムのMSの姿は、現在からはもちろん、『ポケット』制作当時から見ても、過去の時代の超人ロボットの影響を引きずり過ぎていただろう。バーニィが操るザクが寸胴のザク1だったり、クリスが操るガンダムガンタンクだったりすれば、いくらストーリーがリアルだったとしても、それはやはり嘘くさいものになったと思われる。もちろん何よりも大きく、その背後にプラモメーカーの商業主義*3が大きく影を広げていたのは間違いないのだが(皮肉なことに、そんな『ポケット』に登場するMS達は今見ても斬新だ)。

 しかし気をつけておかなければいけない点がある。それは、『ポケット』がMSの魅力によってなっている作品ではないということだ。そこには明らかなテーマがあり、リアルな人物描写があり、そして人々の生活が息づいている。その点が他のプラモ商売作品とは明らかに異なっているはずだ。赤い稲妻はいったい何を伝えたか。白狼はどれだけ私たちの心にせまったか。正直馬鹿馬鹿しくてため息が出る。シンマツナガだのジョニーライデンだの。名前からして楽しいではないか。そんなものへの言い訳として「オフィシャルでこんなのやってるじゃないか」と『ポケット』を持ち出すことは、僕には到底看過できることではない。設定を増やすために制作された設定は作品かもしれないが、物語ではあり得ない。以上の点に関しては、次の問題とからめて後ほど詳しく考察する。
 
 『ポケット』には別の”何でもあり”を生み出したという批判もある。ポケットの物語が繰り広げられた舞台はガンダムシリーズが得意とする広大な宇宙ではなく、ただのちっぽけなコロニーであり、また、ガンダムのキーワードであるニュータイプなど作中に一人として登場していない。つまり『ポケット』は別にガンダムじゃなくても(普通の戦争物アニメでも)良いではないか、ポケットがそんなことをするから、その後ガンダムでなくとも表現できる物語(例えばあの陳腐な『08小隊』*4。GだのWだの*5は明らかに宇宙世紀ではないのでこの際無視する)が、ガンダムの名を借りて制作されてしまうことになったのだ、という批判である。

 この批判はひとつ目の批判に比べて遙かにたやすく誤りを指摘できるが、その誤りの根はより深い。このような批判を行う人は結局、ガンダムをロボットアクションものとして捉えているのだ。つまり彼のガンダムの認識レベルは、強いロボットが正義のために殴り合う、スーパーロボット時代のロボットアニメの認識と同じと言える。初代ガンダムを見たことがある人は、どういうわけか敵軍のジオン公国に肩入れしてしまった時のことを記憶しているだろう。ジオンは主人公達の属する組織の敵なのだから、それまでのロボットアニメの文脈からすればジオンは憎むべき完全なる悪の勢力のはずなのに、どういうわけか憎みきれない。考えてみればその理由は誰にでもわかる。ジオンは別に絶対悪ではないからだ。

 単純な悪を退治するという構図は非常に楽でわかりやすい。退治される側は根本的に悪だから、抹殺するのに容赦は不必要、徹底的にぶち殺せばよい。侵略的宇宙人とか、魔界からの軍勢とか、そのような連中*6。だから人類側はどんな手段をとってでも彼らを撃退することが認められる。とてもシンプルな構図ではあるが、それは絶対にリアルではない。

 ガンダムはそういう話ではなかった。敵も味方もそれぞれ依って立つ場所があり、それらの衝突が話し合いで解決できず、そして最終的に戦争が起こり、人が、そして彼らの人生が消滅する。悲しいことに、その戦争を終わらせるためには、さらに戦争を続け、さらなる人命を失うほかにない。この悲しい連鎖から逃れるすべはないのだろうか…。ガンダムはそんなリアルな戦争像を提起し、だからこそリアルロボットアニメと呼ばれた。そして冨野監督は「この構図を解決するために、人類はニュータイプを必要とする」という結論を出す。古い人類(つまり我々)では戦争はいかんともしがたい。唯一ニュータイプのみが、その宿命から抜け出すことができよう。

 このことはすなわち、問題への完全敗北宣言であったと言える。なぜなら現実にニュータイプは存在しないからだ。戦争は悲しいが必ず起こり、ひとたび起こった以上は終結には必要十分以上の人血を飲み込ませる他ないという、どうしようもない結論に行き当たった監督が、最後の希望として夢見た(あるいは妄想した)存在がニュータイプであり、それ故に、初代ガンダムにおいて彼らは異質だ*7。話はそれたが、つまりガンダムとは「話し合いで解決できなかった戦争」を描いた物語なのである。それは根本的に悲劇であり、解決には妄想に近い期待が必要なほどの絶望なのだ。

 こうして考えてみると『ポケット』はまさにこの定義に当てはまることが理解できるだろう。バーニィとクリス、この二人が話し合えてさえいれば、あの悲劇は回避できた。しかし、状況はそれを許さない。二人が戦わなくて済む状況が完成した時、すでに二人は戦うしかない状況にあったのだ。そしてその場に駆けつけたアルの姿は、ニュータイプではない我々の悲しさを見事に表現している。あのシーンを見た人は思い、願うだろう。ここでアルが、もしくはクリスかバーニィのどちらかでもニュータイプであったなら! しかし現実はそうではなかった。彼の「バーニィ、もう戦わなくていいんだッ」という叫びは、対峙する鋼鉄の巨人同士の駆動音にかき消され、そして…

 『ポケット』は初代ガンダムの物語を、ちっぽけなコロニーの小さな少年の目を通して語ることで、より鮮やかに、よりリアルに描き出した作品であると言える。それはけして”何でもあり”だったり”プラモ解禁のため”だったり、もちろん”ただのジュヴナイル*8”だったりする作品ではなかった。ガンダムの主題を強烈に圧縮し、不必要な要素を取り除いた上で、見る人に衝撃的な勢いでぶつけてくる、そんなストイックな物語なのである。

(ただおしむらくは映像作品としてあまりに出来が悪かった。このアニメを見たことがない人はもちろん、アニメにて体験済みの人もぜひ、結城恭介氏作の『ポケットの中の戦争』文庫本*9を手に取ってもらいたい。彼は『ポケット』の構成、すなわちストーリーを担当した人物であり、この小説は本作に非常に誠実に仕上げられている。予算の制約から急ぎ足で駆け抜けざるを得なかったOVA版『ポケット』を、丁寧かつ読みやすい文体で描ききったこの小説は、はっきり言ってOVA版より完成度が高い。冨野監督の不気味なテンションに満ちたガンダム小説*10に辟易した人には、より受け入れやすいと思う。)

thx

2003.6/22
以上の文章は1989年に発売されたOVA機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』について述べた文章です。コピーライトその他の権利はすべてBANDAI/サンライズにあります。

*1:初代ガンダムから始まり、Z、ZZ、逆襲のシャアと続く冨野監督による宇宙世紀の一連の歴史を舞台に、「それらメインストーリーでは触れられなかった物語」として続々登場した作品群を言う。人によりその範囲は異なるが、0080から始まり0083、一連のMSV系物語や08小隊など、その後のおよそ冨野監督が直接関わっていない作品群を指す。これら作品群の中では登場するMSやMAは原作の時代考証を無視して際限なく強化され、それらを操るパイロット達の技量や功績もまた、ささやかなサイドストーリーではすまされないレベルのものとなる。このあまりのデタラメさぶりに、真っ当なガンダムファンは半ば呆れ半ば絶望し、これらをまとめて何でもありストーリーズと呼ぶ。僕だけかも。

*2:シン・マツナガだのジョニー・ライデンだの、名前を聞いただけでも笑いが止まらないようなパイロット達が活躍するサイドストーリー。一年戦争を好き勝手にふくらませ、当然好き勝手なMSが登場する。登場したMSはどんどんキット化され、プラモ屋の儲けとなった。文面からわかる通り、僕は大嫌いです。

*3:冨野監督はもともとニュータイプ話がやりたかっただけで、別に宇宙でMSが戦う話じゃなくてもよかった、というのは有名な話。スポンサーに付いてくれた会社がロボットのプラモで儲けたかったため、彼の「ニュータイプ話」は『ガンダム』として結実した。しかし、『ガンダム』が商業的に成功していくにつれ、スポンサーは「ニュータイプ話」よりプラモを売ってくださいと冨野監督にプレッシャーをかけるようになり、ぶち切れた監督の嫌がらせは最終的にVガンダム最終回の登場人物皆殺し事件にまで発展する。

*4:機動戦士ガンダム08MS小隊。一年戦争時、南米だか東南アジアだかを舞台に、陸戦ガンダム(この時点で嘘くさい。ガンダムはいったいいくつ作ってたんだよ!)が配備された前線の小隊に、新しく赴任した新人少尉と、彼を信用できない歴戦の兵士の部下達、そしてジオン貴族(!)の姫君との恋愛を絡めて進む痛快ハリウッド式ガンダム風ストーリー。姫君も可愛いし話は面白いのである。ただ主人公が馬鹿すぎるのだ。「敵とだって話し合えば分かり合える!」それができなかったから戦争してるんだよ

*5:それぞれ『機動武闘伝Gガンダム』『新機動戦記ガンダムW』。他にも色々あるが、これら二作が放映されたときのガンダムファンが受けた衝撃は大きかった。なにせあの「おかしいですよカテジナさん」「坊や可愛いねえ」「バイク乗りの楽園!」だったVガンダムの次に、まさか大量のガンダムが殴り合う格闘アニメだの、5人の美形の少年パイロットが良くわからない台詞を吐きつつかっこよく戦ったり自爆したり戦ったりお前を殺すだったりする話が来るとは思わなかったなあ。僕としてはあの辺は完全にガンダム世界と切り離した上で楽しんだのでOKなのだけれど…設定オタクとプラモ屋にぶち切れた冨野さんはターンエーガンダムにてついに、これらまでガンダム正史に取り込んでしまった模様。アワワ

*6:一昔前のハリウッドのB級映画での悪役は、「ソ連」「宇宙人」「ゾンビ」「トマト」だった。今は「テロリスト」「宇宙人」「ゾンビ」「トマト」である。

*7:ニュータイプは当初あっさりとした「〜だったらよかったのに」程度の形で始まったが、その後どんどんニュータイプの妄想化が進み、ZZなどではもう何のことやらわからない。もとより監督の妄想である以上若手のスタッフ、ましてや視聴者に理解されるはずもなく、監督は孤立、ヤケになってさらなる過激な描き方をするもんだからますますわけがわからなくなるという悪循環に陥る。その後監督の手を離れたニュータイプはどんどんただの超能力者コースを走っている模様。個人的には彼の言うニュータイプ、そして人類の革新とは、いわばアダムスミスが道徳感情論で著した「共感」的能力、そしてそれを人類皆が持つことであろうと認識している。共感とは何かというとようするに思いやりである。思いやり。良い言葉ではないか。それぞれに立場はあるだろうが、お互い相手を思いやって戦争はやめましょう、という話。うわあ嘘くせえ

*8:辞書で引くと「少年少女」などというなんじゃそりゃな訳が載っている。文芸の方面でこの単語が使われた場合、およそ「少年少女の成長物語」を意味すると思ってよい。古来よりメジャーな物語のテーマであり、現代においてはなぜかエロゲーに用いられていることも多い。

*9:結城恭介『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争角川スニーカー文庫,1989 \480(税別)

*10:アムロがセイラさんとやっちゃったり、あまつさえ毛をお守りにもらったりするあれ