ロマンティックコメディとは…

ドタバタあり、ウィットに富んだ会話あり、そしてハッピーエンドで締めくくられる(今や少々時代遅れな感はあるものの)爽快感と満足感を同時に満たすジャンル。しかしながらしばしば「ラブコメディ」と混同して語られるこの単語の意味と歴史を理解する人は極めて限られるのではないか。実際この言葉の意味を知るためには前世紀初頭のアメリカ映画史を概観する必要がある。が、余りにだらだら長い上に推敲が足りないのでさっぱりダメなのだけれどもせっかく書いたのを消すのも勿体ないし、ああ!
そもそも映画は極めて下世話な類の娯楽として誕生した。例えば(それが映画なのかどうかに関して少なからず疑問が残るが)エジソンが開発した覗き穴式映画などは端的に言えば温泉街の覗き穴である。キスシーンや殴り合い等、当時公衆の面前で行うことは非常に破廉恥とされた行動を扱って評判を呼ぶ。とても高尚とは言えない。当然ながら教養人たち、中上流階級の人々からは相手にされず、制作者の方もまた、社会の大半を占める下流階級を対象に制作していた。
この流れはフィルムの長さの制約が無くなり、映画が長く複雑な構成を持つようになった後も続く。暴力や性の問題は人間にとってどこまでも魅力的なテーマであり、フィルムの長さが延長されたことによっても変わらない。映画としての体裁が整い始めた初期の作品、つまり上映時間がやっと10分を越えるようになった映画においては以前ほどの露骨さは見られないが、追跡劇や乱闘もの、そして恋愛問題と、本質はやはり同様である。
これら初期の映画のうち、主にドタバタシーンに影響を受け発展していったものはスラップスティックコメディと呼ばれる。チャップリンの映画に見られるように、その収益基盤は依然失うものを持たない低所得層におかれ、笑いの中心は主人公を初めとする登場人物達の愚かな行動である。彼らは上流階級、警官、役人といった社会的な地位にある人々をいたずら攻撃の対象とし、彼らの持つ安定した現実を破壊する。これらの映画の面白さはまさにこの現実秩序の破壊にあり、故に彼ら及び監督は破壊以後の秩序の回復については完全に知らぬ顔を通す。また、同じ理由から彼らの行動には別段の目的は存在せず、ただただドタバタを展開するだけがおおよそのストーリーと言ってもよい。
しかし社会がだんだんと裕福になり、下層民衆の生活もある程度安定してくると、彼らにも失えないものが増える。故に全てを破壊し尽くそうとする初期の終末的スラップスティックは流行遅れとなった。映画制作は依然下層民衆に向けられてはいるものの、彼らにとって中上流階級はもはやひがみと諦めを込めて笑い攻撃する対象ではなく、あわよくばその仲間入りを狙う対象となったのである。これにより、スラップスティックの主人公たちには「社会的地位の上昇」という目的が付与された。彼らはドタバタを笑いの軸にしながらも社会的成功をもくろみ、かつその行動はしばしば女性に動機付けられる(とはいえ彼女らはまだまだストーリーの添え花程度の位置しか持ってはいない)。
さらに時代が進み、アダム・スミス風に言えば「社会が全体としてとても豊かになったので、最下層の労働者と言えども、かつてよりずっと良い暮らしができるようになった」1920年代後半、下層階級のサクセスストーリーを主題におく傾向は完全に主流となる。もはや貧乏人がやけになって暴れるだけの話は共感を呼ばなくなり、これはまた映画の反社会性とでも言うべきものをも減少させる。結果映画はかつて下層階級であった現中流階級の人々もその客層として取り込み、会話が笑いの大きな要素となるなど、以後ストーリーの洗練が進む。
折しも29年からの大恐慌、以前は生活に不自由しなかった市民らをも取り込むことで映画はいよいよ万人向けの性格を強めた   .ついに主人公たちは程度はどうあれ社会的な地位を持つようになる。若さと情熱と幸運だけを頼りに出世していくおっちょこちょいのステレオタイプのかわりに、様々な社会身分のキャラクター達が登場し始める。映画が万人向けとなった以上、ナンセンスなドタバタだけで話を成り立たせることは困難であり、自然彼らコメディの登場人物の性格付けが明確かつ奇抜、非常に面白いものとなった。変人コメディ、すなわちスクリューボールコメディの登場である。
スクリューボールスラップスティックに比べて断然洗練されたジャンルではあったものの、未だその根底に反社会性が存在していた。この反社会性は映画発生時から現在に至るまで常にコメディの面白さの重要な要素ではあるが、それはまた観客の倫理感や道徳感を過度に刺激し、映画を万人向けとする妨げとなる。しかし、この反社会性、アナーキーさが生み出す映画世界の混沌、ルールが破壊された状況こそスラップスティックの本質的な面白さであり、これを捨て去ることは不可能と言ってもよい。そこでこの問題を解決するために「終わりよければ全て良し」とでも言うべき方法が発明された。
すなわち「作中にて一度破壊された社会のルールが、映画の中で築き直される」というただそれだけのストーリー構成。感情移入の容易な、社会的に突飛な存在ではない主人公達、かといって平凡ではありえない彼らの奇抜な性格が引き起こす乱暴でアナーキースラップスティックは観客に爽快な笑いをもたらし、不安感を誘う。けれども最終的に主人公の二人が結ばれる構成はストーリーを現実の規範に沿わせ、すべての反社会性の帳尻を合わし、観客には満足感だけが残る。そう、それこそロマンティックコメディなのである。   .ああ!実に長かった。
一度失われた倫理的規範が再び正しいものとして取り戻される演出。これによりその誕生以来映画が内包していた反社会性は劇的に弱められ、映画はついに公言できる娯楽となった。下品なものを上品に、危険なものを安全に見せてしまうシステム。ロマンティックコメディというジャンルは不気味なほどに安定した娯楽システムである。この偉大な発明を装備した映画が、圧倒的な人気でアメリカのみならず世界中を席巻したのも当然と言えよう。なお万人向け娯楽というレッテルを手に入れた映画は、この後まもなく再び反社会的な性格を強くして行くが…それはまた別の話。というか長すぎ。