神様は信じる?

つまり、僕はこの物語の最後に『da capoのあれ』が挿入されるのは、ただただ演出上の、あるいは内容開示手順の問題であって、本来それは彼女の物語の代わりにあの初めの三つの物語の一角を占めていたのだと思っているのです。
逆に言うならばal fineの裏表に対応しているTの物語は、冒頭三部作の内では明らかに異質であり、その意味で『da capoのあれ』こそ三つの物語の一に相応しいと。
実際に全てが終わった時、da capo内のTの物語は、本来のそれを打ち消してあの結末に辿り着く、すなわち彼女の物語は、実はda capoの中に収まっていない
シンフォニック=レイン、その全ての結末を知った時、語られた物語の位置を再構成するのは容易なことです。
そこにはal fineという一つの物語――顔と顔を合わせて語られる――と、その周囲を取りまく三つのda capoがあり、そしてそれらは結末、あるいは"最後まで"に向け著者たちの主張を絞り込んでいくための、意味の階梯を成している。
だからこそ、『da capoのあれ』は他の二つと同様に、単純な奇跡として見ることはできないと僕は思うのです。
むしろそこには大きな皮肉が込められている、知らされていないからこそ幸せに思える、致命的な秘密があるはずだと。
そしてそれは結局のところ、ファルシータがあえて暴き、トルティニタがリセの前で呟いた、あの事実に他ならないのだ、と。

 もし神様がいるなら

カトリック教会で行われる通夜の式は「親しい人との別れは、だれにとっても悲しいことです」という招きの言葉で始まりますが、特に身近な人の死を前にして、死という現実を目の当たりにするのはいつの世も同じです。しかしキリストを信じる者にとって死が人生の終わりに思えたとしても、新たな人生の始まりであり、目的である天国への旅立ちであることを信じているからこそ、人の死を素直に見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。通夜での祈りはそのことを表明します、「キリストは『わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる』と教えられました。別離の悲しみのうちにもわたしたちは、このキリストのことばに慰めと希望を見いだします」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/dead.htm