協調原理2

「この文章には、それが物語るべき、そして僕が読み取るべき価値があるとする前提」のことを協調原理と言い、またそうすべきであるとする無言のプレッシャーを協調圧力と言う、といったことを先日書いた。エロゲに代表されるパラレル展開する物語はこれに対して興味深い性格を持つ。つまり、それらはパラレルであるが故に、構造的に、一度だけの読み取りでは意味をすべて読み取ることができないのだ。
何らかの結末に辿り着いたとき、読者はここで協調上の第一の選択を突きつけられる。「ほかのエンドのためにこの物語をはじめから読み直すべきか、否か」。YESを選んだ時、彼は一段高次の協調原理の中に踏み込む。実際のところ、そのソフトにお金を支払っている以上、この選択は半ば強制でもあるから、ノベルゲームにおいては協調圧力が最初からかなり高いといえる。
さて、そうやって最後まで物語を読んだとき、読者は最終的な協調上の判断に直面する。つまり、そこに協調するに値する価値はあったのか、なかったのか。しばしば作品に対して議論の対立するところはこの時点である。なかったとする人々も、けして協調原理に反しているわけではない。彼らは十分に協調したが、その結果落胆したのである。圧力に屈して最後まで辿り着いたのに、価値がなかった。これは確かに腹が立つ。


問題は、「協調する価値がないとする前提」のための協調原理とでも言えそうなものが存在することだ。つまり、ある作品をただ「つまらない」と言うために手に取って最後まで読むことも読者には可能だ、ということである。それもまた一種の協調圧力ではあるのだが、その動機は作品の中にではなく読者の中に存在する。
けれど、無意識のうちに彼もまたその物語に価値を与えているということに留意したい。「”この文章には、それが物語るべき、そして僕が読み取るべき価値があるという前提”を否定するに足る価値がある」として物語に協調する時、物語の与えるものは逆転する。焦点はプロット、あらすじ、あるいはストーリーと呼ばれるものに転嫁されるが、結局のところ双方とも、協調原理の中にいるのだ。


ところで、エロゲにこれほどの協調圧力の高さを生み出す要因の最大のものの一つとして、その価格以外に、根本的には、濡れ場の存在があげられる。プラスにもマイナスにもなるエロゲ的協調原理の核にあるのは、餌としてつり下げられた美麗なCGという、本来文章とは独立した存在である。言ってしまえば、すてきなジャケットという存在がまず、読者に協調圧力をかけて来る。手に取れ、読め、と。*1
そうすると、エロゲに対して過激なコメントがしばしばなされるのは、そういったあざとい圧力に対する読者側の無意識の反発なのかもしれない。ある作品のパッケージはそれが美しければ美しいほど一見その作品に対する協調原理を保証する。けれどその中身たるや、となったとき、読者はそのパッケージを否定するための内的な協調圧力にさらされることになる。首尾一貫してすばらしいはず、という期待は、首尾一貫してダメである、という主張にしばしば反転する。

不幸は、「何が良くて何がダメなのか」という思考に対して、協調原理はうまく作動しない性質を持っていることなのかもしれない。

*1:反対に、たとえばシンフォニック=レインのパッケージの協調圧力の低さは特筆に値する(笑)。  参照:http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/B0001FG724/ref=dp_image_0/503-1666661-2219142?ie=UTF8&n=637392&s=software