新約聖書入門

新約聖書入門―心の糧を求める人へ (光文社文庫)
たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても、
愛がなければ、私は鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、予言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、わたしは何ものでもない。
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、たとえ、賞賛を受けるために自分の身を引き渡しても、
愛がなければ、わたしにはなんの益にもならない。
――コリント人への第一の手紙

こんな危険な内容を内に含む聖書という書物を、私は畏敬の念を持って眺める。それは神について書かれた書物であるにもかかわらず、「たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても駄目」なのだと言う。愛がなければ、信仰があっても意味がない。つまるところ、このテクストが述べるところで、一番大事なのは愛なのだ。そして真実、キリスト教の根幹にあるのは、何かそう言ったものではないのかと、部外者である私は思う。だからこそ私は神という言葉に反発を覚えながら、キリスト教に惹かれざるを得ない。少なくとも今の私には、キリストを崇めることはできない。ただ、彼と彼の母によって象徴される大きな何かに、私は強く心を突き動かされる。

 シンフォニック=レイン考察  「Erogamescape」投稿より

シンフォニック=レイン DVD通常版
これまで色々と試行錯誤してきた「考察」、あるいは「読解」が、一通り結論付けられたと考えます。そしてそれがつまり、この作品が持つ意味であり、テーマであるとも。ただ、まだわからないことはありますし、まだまだ読み解けたとは考えていません。けれど少なくとも、これまでの文章よりは、論旨や展開がマシな、読みやすいものになっているのではないか、と、こっそり自負しています。
もちろん、完全なネタバレ 反転していませんので、ご注意。
http://d.hatena.ne.jp/hajic/20050322#p2

 私がフォーニエンドに対し、抱いた数点の疑問

・それはなぜ、「da capo」内に存在するのか
・それはなぜ、「ゲームクリア」と叫ばれないのか
・そこではなぜ、他のエンドと同様、「星空を飛ぶ光」が描かれたのか
・なぜそこだけで、アルが甦った――すなわち「奇跡」が起こったのか

 私はこう考えました。

・da capoとは「初めに戻ってやり直し」という意味を持つ
→実際に、思い出すと、da capoはどれもこれも何か問題があり(そうでしょう?)、最終的にal fineに辿り着くまで何度も「初めに戻ってやり直」さなければならなかった。da capoに含まれるエンドは、それぞれ何か、「問題」 を抱えたままなのです。

・al fineとは「終わりまで」という意味を持つ そして、「アルの死」という意味も。
→だからこそ、このエンドのみが、物語的な意味で「結末」を意味します。そして実際に、このエンドのみで、もはや わ ざ と ら し い く ら い に 無遠慮に、「ゲームクリアおめでとう!」と(”本編のヒロイン”)トルタは叫ぶのです。
なお「終わりまで」は、正しくは「alla fine」と綴る…
・「星空を飛ぶ光」とは、アルの(あるいは他の誰かの)魂を意味する
ゆえに、フォーニエンドでさえそれが飛んだ以上、あのエンドでもアルは死んでいる。もしくは、アル以外の誰か」が、あのエンドにおいて「一人、存在しなくなっている」。ならばいったい、あのアル、クリスの側で微笑む彼女は、 「本当は誰」 なのか?
そしてなぜ、「窓」にはカーテンが掛けられているのか。






注意。ここ以降、物語自体に対するネタバレとなります。
止まるなら今。手遅れかもしれませんが、一応。

 端的に言いましょう


・フォーニエンドで、最後にクリスの側で微笑んでいるアルは、トルタです。
奇跡など、起こっていません。どちらかといえば、呪いです。
アルは死にました。それでもトルタは、アルの振りをし続けるしかない。
フォーニエンドとは、『シンフォニック=レイン』で最も残酷な虚偽に満ちたエンドです。

信じている限り、最も幸せなエンドなのに。


al fineは、12/15から始まります。そして次の日は? なぜか12/8です。そして次の日は、当然のように12/1を語り、さらに11/24まで戻った翌日、ついに3年前にまで物語はジャンプします。al fine序盤において、物語は、なぜか戻って行っている。そして、物語が戻るに従って、私たち読者は、その語り手が「アルではなくトルタであること」に気づきます。逆に言えば、当初、12/15の時点では、アルとしての「トルタの偽装」は、既にほぼ完璧でした。そしてその、「ほぼ完璧な偽装」の嘘を暴くためには、私たちは過去に遡るしか手はなかったのです。言い換えれば、「トルタは日に日に、アルに近づいている」。その結果、実際私たちは彼女の偽装を見抜けなかったのです。

繰り返しになりますが、このトルタ視点の物語は当初(すなわち12/15)、「まるでアルによって語られているかのように」思えます。その実、それはトルタが語っていたわけですが、少なくとも私たちはそれを「アルが語っている」と信じそうになった。トルタは大嘘つきです。極めて優秀な、嘘の紡ぎ手です。それが嘘だとわからない限り、彼女がそれを明かそうとしない限り、彼女の嘘は真実だとしか思えない。嘘は、それが本当だと思いこまれる限り、真実になりえます。少なくとも、そう「信じた誰か」にとっては。

また、al fineで最も注意深く読まなくてはいけない箇所の一つ(実際のところ、本作に「注意深く読まなくても良い記述」など一切存在しませんが)。それは、1/5、トルタが「手紙」に関して行う独白です。引用しましょう。


『ただひとつ、聞かせてください。トルタのことをどう思っているか』
もしもクリスが私のことを好きだと言ってくれれば、私は何に変えても彼のために全てを
捧げるだろう。アルのことも、卒業演奏のあとにきちんと話し、その上で彼の支えになる。
望まれようと望まれまいと、最後まで彼の幸せを願って行動する。

『そしてもし、アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っているのなら――
私は身を引き、アリエッタとして彼をいたわるだろう』


つまり、そういうことです。トルタは、もしそうなら、「アルになろう」と決断している。フォーニエンドは、「クリスにとっては」違ったとしても、事情を知らないトルタにとってはまさに「アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っている」エンドでしかあり得なかった。そして実際、クリスはアル=フォーニだと結論づけましたし、彼はフォーニを選びましたから、フォーニエンドとは、「アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っているエンド」なのです。

トルタは、アルになってしまうのです。なってしまい得るのです。
それは嘘なのに、疑いを持たない限り、本当なのです。
死ぬまで気づかなければ、死ぬまで本当なのです。
SRは、極めて恐ろしいことを語っている。

 ではいったい、「何が」おかしいのか ――そして「誰が」偽っているのか    Natale

納得がいかない。どうして、アルを思い続けたら、こんな結末になってしまったのでしょうか。そう、そこには間違いなく、まだ何か、極めて重大な嘘が残っています。だから、この疑問は、「結局、クリスは誰が好きなのか」という疑問にこそ、置き換えて考えられるべきでしょう。そしてその疑問の答えは、da capoトルタパート12/25に存在します。



「僕は上を向いて、その丈夫で美しい天蓋を見上げてみた。
トルタの言うように、漏れるなんてことはありそうにない」
「雨を避けるために作られたその屋根は美しく、
機能のためだけそこに存在しているとは思えなかった」

天蓋。世界すべてを覆う、悲しいくらいに美しい、クリスの嘘。
「雨」とは、クリスのココロの雨ではなく、アルの、そしてトルタのココロの雨なのだ。
――DPC『雨の始まり』

雨は、クリスによってのみ見られた「偽り」でしたが、
それでも天蓋の下には降ってこなかった。
それは、嘘を嘘として成り立たせるための、最低限の「お約束」でした。
なのに、このシーンで、その「お約束」は破られる。

いや、「降ってくるはずがない」のです。もし降っていたとしても、振り込むはずがない。それまで、いくら雨が降り続けていたとしても、天蓋のなかで、雨が降るなどということは、「ありえない」。それは「絶対にあってはならないこと」なのです。そう、そこにはあえて、一つだけ、しかし、絶対的な嘘が一つ、ぽつりと一滴。 「落とされる」。

つまり、このシーンが持つ「嘘」は、「暴かれなければ意味がない嘘」なのです。あるいは、「暴かれないといけない嘘」なのです。それは、『シンフォニック=レイン』の根本であるが故に、どうしても暴かれないとならない。けれど、そのためには、「絶対にあり得ないこと」の力を借りるほかなかった。「絶対にあり得ないことが起こる」、それはすなわち、「奇跡」です。この日は降誕祭。ゲームの中で起こった、ただ一つの「奇跡」は、まさに、この聖なる日の、一滴の「雨」。
――何という皮肉。「奇跡」は「嘘」なのです。
雨を感じられたのはクリスだけ。フォーニを見ることができたのもクリスだけ。
たぶんフォーニは、クリスにだけ見えていた、アルの、そしてトルタの、本当の想い。
そのココロの涙が、「雨」だけが、唯一、物語を、いや読者を、finaleへと導く。

「トルタは僕にとって、なんなんだろう…と。
昼に、おじさんは恋人のようだと言った。
でも実際は、僕たちはただの幼なじみで、同じ学院に通う親友だった。
でも、それだけではない。そう割り切ってしまえるほど、浅い関係でもないような気がする。
それを言葉にしてしまうのは嫌だったから、
僕はただ、それを疑問に思い、答えに気づかない振りをした。





彼にとってトルタは、親友以上です。でも、恋人ではない。ならそれは何?
もうおわかりでしょう。

 ――『僕は、アルが好き』

はい。これこそが、『シンフォニック=レイン』最大の「嘘」です。彼は「本当はトルタが好き」なのです。なのにそれに「気づかない振り」をし続けているのです。そう、この物語で最大の嘘つきは、トルタではなく、クリスです。だから、彼がその嘘を暴かれない限り、『シンフォニック=レイン』という物語は、「ゲームクリア」にならないのです。もう笑うしかない。
私たちが信じていたすべてが、逆転する。

 ”この世界”の嘘と真実  それは私たちの世界の真実

雨は、偽りでした。なのに、雨が、真実を教えてくれた。でも、その真実とは、気づかぬ限り嘘でした。私たちは気づかない限り、一生でも「嘘」を「真実」だと思い続けてしまう。そこに「本当のこと」があるとしても、それがわからなければ意味がないのです。私たちは何かを見たとき、それを嘘か本当か、「信じる」しかない。少なくとも、神ならぬ私たち人間にとって、「真実」なんてのはその程度の価値しかない。世界は「こうこうこうであると信じる」多くの人の常識の上になりたっています。だって、そもそも私がこうして記述している「文字」自体、「”あ”とはaと発音され、カタカナで書けばアである」と「信じ」るから使えるわけであって、「なぜ”あ”はaと発音するの?」という疑問には答えようがありません。それはただ、みんなが「”あ”とはaと発音され、カタカナで書けばアである」と「信じている」からです。少なくとも人間の世界に、「真実」はありません。
そう、アルが、「アル」であることにさえも、理由はない。

――もしあるとしても、それは「いつか人は死んで、帰らない」ということだけです。
それすらも、死んだ人自身には確認できない。

 愛がなければ、全ては空しい

トルタエンド以外のクリスの選択は、常に彼に「許し」という行動を行わせていたことに注目してください。例えばファル。例えばリセ。フォーニエンドの描写さえも、『愛』ではなく、「許し」なのです。クリスはトルタとの『愛』を選ばず、常に「許し」を与える側になろうとしていた。そもそも3年前、彼は”横に並んで歩くトルタ”ではなく、”一歩下がってついてくる”アルを選んでいます。彼は、いつも、恋人より優位に立とうとしているのです。それははたして、『愛』なのでしょうか?

『愛』とは全て相手に投げ出し、与えること。これはとても恐ろしいことです。だって、相手が受けとってくれないかもしれないわけですから。自分の全てを投げ出して、投げ捨てられたとき、それはある意味「死」です。あまりに恐ろしい。それ故に、クリスはずっと、『愛』から逃げてきたのです。「許し」続けてきたのです。そしてal fineで初めて、彼は『愛』を”受け入れる”(この臆病者!)ことができた。――ああそれは、何という高慢。高慢こそ、人の最も深いところに存在し、最も発見しづらい罪。それは人を楽園の外に追いやった、人の最も古い業です。
その罪は、アルによって購われた――彼女の、受難と死と復活によって。
つまり、ここに来て、ファルやリセといったいわゆる「グッドエンド」が、なぜあんなに「違和感」に満ちていたかがわかります。それらは確かに、「バッド」ではなかったかもしれない。その意味では確かに、「グッド」だったのかもしれない。リセは回復したかもしれない。ファルの言葉は正しいかもしれない。しかし、それらは間違いなく、「空しい」のです。そこに、『愛』がないから。愛がなければ、全ては空しいのです。

 シンフォニック=レイン この嘘だらけの世界で

ではなぜ、私たちは『愛』だけを信じるべきなのでしょうか。真実のない世界で、どうして『愛』だけが、物語を結末に導くことができたのでしょうか。正直に言いましょう。私は、この部分に明確な結論を下すことはできません。
ただ、それこそが『シンフォニック=レイン』という作品の告げたかったことであり、それはおそらく、『シンフォニック=レイン』の語り手が――すなわち岡崎律子が――(おそらくは極めて深い悲しみと悩みに満ちた)彼女の人生をかけて辿り着いた、「”この世界”を生きるということ」の答えなのだと思います。
それは、ただ彼女の得た確信。だから、この答えは、それはもう「信じる」か、「信じない」かしかない。そして私は、彼女の答えを、信じます。


ごめんなさい。ほとんど全てが、嘘なの。でも、これだけは信じて。
私はトルティニタ。そして、あなたのことを愛してる。
それが全て。


シンフォニック=レイン』を総括する言葉。
世界に「真実」はないか、あるいは見つけられなかった。
ただ、それでも、そこにあると「信じたい」もの。
それは『愛』であり、それが「全て」なのです。






感謝。